ドゥルーズ最晩年(1992年)の重要論考『L’Épuisé』の新訳。あらゆる疲労を超えたその先で、可能なことすべてと手を切った状態をめぐる考察が、ベケットの戯曲を分析しつつ展開される。「イメージは可能事のすべてを蓄積するが、それは可能事のすべてを爆破するためである」。現実の廃棄へと向かう、網羅と枯渇、摩耗と消散が問われる。イタリア語版に付されたジネーヴラ・ボンピアーニによる注釈「「尽くされた」という単語」とジョルジョ・アガンベンによる論考「姿勢」を併録。叢書・エクリチュールの冒険、第26回配本。
「この論考の題となっている「尽くされた(épuisé)」という単語には並外れた含蓄がある。この論考は、この単語のもつすべての意味、その語彙のすべての延長、その意味の一族(余すところなき、網羅的な、へとへとにさせる、汲み尽くされた、消耗させる、精根尽きた、絶えた、消散した、解消された……)を調べ、ベケットのテレビ用小品の、彼の晩年の全作品の、いや、もしかすると端的に彼の全作品の謎を解く暗号を捉えようとするものである」(ジネーヴラ・ボンピアーニ)。
「「尽くされた」でジル・ドゥルーズはレヴィナスを名指してはいないが、レヴィナスが意固地に描写している現象学を超えたその先に行こうとしている。ジネーヴラ・ボンピアーニの正確な直観にしたがえば、ドゥルーズはそれを、「思考に身体をもたらすというより、身体に思考をもたらし、思考によって思考の姿勢自体に刻印される一つの身体を露出させる」よう努めることでおこなっている。つまり、レヴィナスがやっているように存在の教説たる存在論を姿勢の教説へと解消するだけでなく、存在論に存在と手を切らせる姿勢、その可能性を最末に至るまで尽くす姿勢を探し求めることによってである」(ジョルジョ・アガンベン)。
原書:Gilles Deleuze « L’Épuisé », Minuit, 1992, in Samuel Beckett : Quad et autres pièces pour la télévision, suivi de Gilles Deleuze, L’Épuisé.
初訳:『消尽したもの』白水社、1994年。※白水社版は原書の体裁に倣い、ドゥルーズの論文(宇野邦一訳)と、サミュエル・ベケットのテレビ放送用台本4作「クワッド」「幽霊トリオ」「…雲のように…」「夜と夢」(いずれも高橋康也訳)をカップリングしています。その後、4作品は新訳で『新訳ベケット戯曲全集(3)フィルム――映画・ラジオ・テレビ作品集』(白水社、2022年)に収録されました。月曜社版『尽くされた』では、ベケットの4作品は併録せず、イタリア語版『尽くされた』(ノッテテンポ、2015年)に収められたジネーヴラ・ボンピアーニによる注釈「「尽くされた」という単語」とジョルジョ・アガンベンによる論考「姿勢」を訳出して併載しました。