2014年1月25日に沖縄県立博物館・美術館でおこなわれた「森山大道 終わらない旅 北/南」展シンポジウムでの講演の採録です
目の前にある現実を離れて内的イメージに接近した、黒かったり白く飛んだりして像のはっきりしない写真や、ボケたり粒子の荒い写真が増えていく。
73年には「地上」が連載される。
『アサヒカメラ』と仕事をするようになったのは『カメラ毎日』よりも遅く、1968年1月号に『朝日ジャーナル』で発表した「バトントワラー」を再録したのが最初である。
「かねてからぼくは、無限の時間と空間をつねに自分とクロスさせながら、思わぬ発見と新しい認識の旅に出たいと願いつづけてきた。
この章で取り上げるのは、『にっぽん劇場写真帖』を上梓して芸人シリーズに区切りをつけた1968年から1973年までの活動である。
それにしてもなぜ写真だったのか。
大阪池田の社宅で生をうけたのは1938年10月、その冬には広島に引っ越して2年過ごした後に祖父母の元に預けられ、1945年、宅野から千葉に移りそこで東京大空襲を目撃、4月に国民学校初等科に入学、8月に長かった戦争がようやく終わった。
山に挟まれた小さな入り江にできた町には平地が少なく、目抜き通りをそれるとすぐに浜の方向に地面が傾斜した。
はじめて宅野のこの家で暮らしたのは2歳のときだった。
「僕の兄の名は一道といった。
「あたみ」を撮った後、歌舞伎町界隈をカラーで撮った「オープン・セット〈新宿〉」を『カメラ毎日』に発表。
芸能関連の撮影は限られた条件下で予定したものを撮るが、ストリートスナップでは街をさまよいつつ遭遇したものを撮るというようにスタート地点が異る。
—なぜ「日本の土着性や芸能性をとらえている」という審査評に不満だったのですか。
デビューから4年後の1968年、最初の写真集『にっぽん劇場写真帖』が出版される。
東松と森山では8歳の年齢差がある。
—横須賀を撮ったきっかけは何ですか。
舞鶴からもどり月が変わって4月になると、当初の予定どおり細江英公のアシスタントを辞め、結婚する。
はじめに簡単に森山大道の経歴に触れておこうと思う。
森山大道の写真には、だれが見ても彼の写真とわかる明確なスタイルがある。