他者との関わり合いにおいて主体は形作られ、他者への責任=応答可能性において主体は自らを変革する。道徳が暴力に陥る危険性を問い質し、普遍性の押し付けによって個性を圧殺する倫理的暴力の論理に抗いつつ、危機の時代に「私」と「あなた」を結び直して希望の隘路を辿る、剣呑な哲学。暴力論叢書第三弾刊行!
アドルノとレヴィナスについての驚くほどオリジナルな解釈のなかで、ジュディス・バトラーは、倫理の問題が道徳的自己と暴力との共犯関係に不可避的に取り組まざるをえないことを説得的に示している。剏造的な再解釈の諸前提を提示しつつ、本書は、これら二人の著者についての議論、彼らの未来への遺贈が、ある意味で始まったばかりであることを示している。バトラーは、人間情念の最も残酷で最も破壊的な部分に対抗し、それを別の方向へと導くために哲学的知性の最大の力と悦びを結集する点で、真にスピノザ的精神において著述している。見事な議論とすばらしい文章によって、『自分自身を説明すること』は、現代の文化と政治を考える哲学者と学生にとって必ずや古典となり、必読書となるだろう。
ヘント・デ・ヴリーズ(ジョンズ・ホプキンス大学)
アイデンティティと責任=応答可能性との交差をめぐる力強い探究である『自分自身を説明すること』は、私たちの時代の最も重要な思想家たち—-アドルノ、フーコー、レヴィナス、ラプランシュ—-と対話する最良のジュディス・バトラーを見せてくれる。これらの思想家が異議を申し立てようとする社会的、道徳的規範との関係でのみ現れる、アイデンティティの問題と対峙しつつ、バトラーは、自己理解の諸限界—-それは私たちを人間にしてくれる—–との関係から、責任=応答可能性を再考しようとするのである。
ジョナサン・カラー(コーネル大学)
『自分自身を説明すること』においてジュディス・バトラーは、自己認識を切望する際にさえ放棄され、耐え忍ばれ、経験されねばならないものとは何かと問うている。彼女は、人間の個体化に伴う衰弱について、大胆な仕方で探究を続けているのである。そこから彼女が示唆するのは次のようなことだ。つまり、自己意識の絶頂とは、洞察には危険が伴っており、知覚には裂け目があり、判断には根拠が乏しいことを自己について認識する点にある、と。本書は、勇気ある思想家による、勇敢な書物である。
ヘイドン・ホワイト(カリフォルニア大学/スタンフォード大学)
原書: “Giving an account of oneself”, by Judith Butler, 2005, New York: Fordham University Press.