■CONTENTS
- デュットマン初来日を歓迎する / 小林浩
→前口上に来日情報と翻訳情報をご紹介します。 - 特別インタビュー「デュットマン教授への10の質問」/ (c) 月曜社
→来日早々の教授に素朴な質問をぶつけてみました。 - 特別寄稿「固有名の思考/思考の固有名」/ 宮崎裕助
→現代思想におけるデュットマンの位置を懇切丁寧に解説! - 特別寄稿「講演「決断と主権」をめぐる覚え書き」 / 清水一浩
「東京講演」に先立つフランクフルト講演のキーポイントを紹介!
■デュットマン初来日を歓迎する / 小林浩
デリダ/ハーバーマス以後の西欧現代思想を牽引する若手哲学者の一人、アレクサンダー・ガルシア・デュットマン(1961-、イギリス・ミドルセックス大学教授)が、初来日を果たした。東大駒場キャンパス内に設立されているDESK(ドイツ・ヨーロッパ研究室)の主催するシンポジウム「カール・シュミットと現代—-秩序・政治・例外・神話」に出席するためである。シンポジウムは今週末、9月27日、28日(土・日)に開催される。聴講は無料で、誰でも参加できるし、通訳もついている。
http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/carlschmittsymp.htm
この特設ページは彼の初来日を記念して開設するもので、デュットマンの元に留学した経験のある宮崎裕助氏と、デュットマンの著書『友愛と敵対』の翻訳者である清水一浩氏にご寄稿いただき、宮崎氏にはこの特異な哲学者の思想的位置をマッピングしてもらい、清水氏にはデュットマンのフランクフルト講演の一端を解説していただいた。素晴らしいイントロダクションを寄せてくださった宮崎氏、また、今週末に全貌が明かされる東京講演に効果的な補助線を引いてくださった清水氏に感謝申し上げたい。
さらに、デュットマンの横顔を紹介するために、来日して間もない彼にお願いして、インタビューをさせてもらった。現代思想の最前線を疾駆する、難解をもって鳴る剣呑な哲学者にごく日常的な素朴な質問を浴びせたにもかかわらず、氏は快く答えてくれた。取材に際し、通訳の労を取ってくださった大竹弘二氏—-氏もまたデュットマンの著書『友愛と敵対』の翻訳者であり、現在は彼の大著『思惟の記憶』に取り組んでいただいている—-と宮崎裕助氏に感謝申し上げる。なお、取材のスケジュール調整にあたっては、DESK事務局のご好意を得たことを特記したい。
デュットマンの著書の日本語訳は今までのところ『友愛と敵対—-絶対的なものの政治学』だけである。これは昨年、私の所属する出版社である月曜社から刊行したもので、これまでメルマガでも何度か取り上げたが、この小著は友敵論をテーマに民主主義の可能性の根幹を問うたもので、カール・シュミットの『政治的なものの概念』(未来社)、デリダの『友愛のポリティックス』(みすず書房)、ハーバーマスの『討議倫理の解明』(未訳)での議論を検証している。
月曜社では今後もデュットマンの著書を翻訳出版する予定で、彼の記念碑的大著『思惟の記憶』や『エイズとの不和』(関修訳)などの企画を進めている。
ほかにも月曜社では、ジョルジョ・アガンベン著『アウシュヴィッツの残りのもの』第二刷の刊行の折に、デュットマンによるこの本への論評二篇を掲載した小冊子「月曜社通信」を付録として投げ込んだが、書店店頭での無料配布はごく限られた都内の大型書店においてだけだったので、ご覧になっていない方も多いに違いない。著者の了解を得、来日を記念して月曜社のウェブサイトに再掲載したので、ご覧いただければ幸いである。
「残りのもの」の倫理—-アレクサンダー・ガルシア・デュットマンによる『アウシュヴィッツの残りのもの』の二つの読解
(「倫理の両義性」「NEVER BEFORE, ALWAYS ALREADY」)<PDFファイル >
◎小林浩(こばやし・ひろし)1968年生まれ。月曜社取締役。
■デュットマン教授への素朴すぎる10の質問 / (C) 月曜社
2003年9月24日、駒場。アレクサンダー・ガルシア・デュットマン教授は当日朝に日本に到着したばかりだったが、彼の著書の翻訳企画のミーティングの合間に快くインタビューを受けてくれた。質問は月曜社の小林浩が作成し、通訳は東大の院生である大竹弘二氏と宮崎裕助氏がそれぞれドイツ語と英語で相補的に行った。デュットマン氏はおおむね英語で回答されていた。以下にご紹介するのは、そのインタビューの「要約版」である。正確な要約であるというよりはむしろ意訳的なものであり、また、多忙なデュットマン氏本人の厳密なチェックを経たわけではないため、文責は小林浩にある。読者諸姉兄はこの日本語版テクストを非公式なものであると了解せられ、もしも引用される場合には細心の注意を払っていただけたら幸いである。[2003年9月26日記:小林浩]
Q1:数年来Eメールだけでやりとりしてきたデュットマンさんにこうしてお目にかかれることができてたいへん嬉しいです。今回はじめて日本を訪問されたわけですが、どんな第一印象をお持ちになりましたでしょうか。
デュットマン(以下表記を略す):到着したばかりなのでまだ印象というほどのものは持っていませんが、映画などのメディアで見てきた日本の印象と、これから実体験する日本とでは違いが当然あるだろうと思います。以前、ベトナムに行ったことがあるのですが、街にたくさんのバイクが走っているんですね。信号がないので、道を渡る時にはバイクの往来を前に躊躇してしまう。でもためらっているとかえって危なくて、さっさと渡ってしまう方がバイクは止まってくれるんですね。些細な例ですが実体験は大事です。日本に着いて、空港から宿泊先まで直行しただけなので、これから色んな場所を「探検」して体験してみたいですね。
Q2:日本に来て、どこか行ってみたい、見てみたい場所はありますか。
そうですね。どこかおすすめはありませんか。映画の『もののけ姫』や黒澤明監督の『八月のラプソディ』を見た時、私は日本の森や海岸線、田園風景などを美しいのだろうなと想像しました。京都とかがいいのかな。
Q3:これまでデュットマンさんは、バルセロナ、フランクフルト・アム・マイン、パリ、サンフランシスコ、メルボルン、ロンドンといった各国の都市で過ごされましたね。一番愛着があるのはどの町ですか。
サンフランシスコですね。1992年から1994年、スタンフォード大学で教えている頃、滞在していました。あの気候と風景は私にとってまったく初めてのものでした。地中海的なものとアルプス的なものとのミックスというか。街並みの向こうに沸き起こる雲の美しさなど印象的です。でも今はロンドンが好きだから、サンフランシスコに行ってもきっとそうした感激は薄れるでしょうね。
Q4:10代の頃の一番の愛読書は何でしたか。ジャンルは問いません。
思い出せないなあ……。そうですね、14歳、15歳くらいの時ですが、私はまだバルセロナで暮らしていました。祖父母に薦めてもらったか本屋で自分で見つけたか記憶が曖昧ですが、メルセ・ロドレダMerce Rodoreda[cにはセディーユがつき、その後のeにはアクサングラーヴがつく]というカタロニア語の作家の書いた、『ダイヤモンド広場』La Placa del Diamant[cにはセディーユがつく]が好きでした。1936年から1939年に起きたスペイン内戦時に生きた女性の物語です。
◎注:『ダイヤモンド広場』は朝比奈誼氏の訳で晶文社から1974年5月に刊行されている。名前のカタカナ表記は「マルセ・ルドゥレーダ」となっている。彼女の作品の唯一の日本語訳のようだ。ロドレダ女史は1908年もしくは1909年に生まれ、1983年に亡くなった、カタロニア語で書くスペインの作家である。
Q5:ではここ10年でもっとも愛読している作家は誰でしょうか。
ジュリアン・グリーンの『レヴィアタン』ですね。逃れがたいイメージの連続というか、登場人物が必然的で運命的な見えない力に駆られていく、迫力のある作品です。
◎注:『レヴィアタン』は人文書院の『ジュリアン・グリーン全集(8)』として、1982年8月に工藤進による日本語訳が刊行されている。グリーンは1900年に生まれ、1998年に亡くなった、フランスの作家。
Q6:哲学に興味を持ち始めたのはいつ頃からですか。
ロドレダの本を読んだ頃と同じ、14歳、15歳頃ですね。家族や学校の先生、友人たちから「平凡な」人間に見られたくなかったというか。ベケットの「勝負の終わり」という作品が好きで、それについて論じているアドルノのエッセイをはじめてその頃読んでみて、彼の特異で芸術的な書き方に魅せられたのです。誰かと喋る時に、アドルノに言及してみせて、平凡じゃないものが好きな自分を印象付けたかったという気持ちがあったと思います。人が期待しているような自分には収まりたくない。『〈ミスター抵抗〉の自伝』という本をいつか書こうと思っていたくらいです。
Q7:あなたに10代の親戚がいて、彼女ないし彼は哲学書を今まで一度も読んだことがないとします。一番最初に薦めたい哲学書は何ですか。
そうですね。どの本というよりかは、難解な本、一読では全然分からないような本にチャレンジしてみることを薦めたいですね。しかし強いて言えば、アイリス・マードックの『善の至高性』です。世界にあい対する自らのインテンシティを高めることのできる本です。
◎注:アイリス・マードックの『善の至高性』は菅豊彦と小林信行による訳で、九州大学出版会より1992年5月に刊行されている。
Q8:その親戚の子が住んでいる文化圏によって薦める本は変わりますか。
いいえ。変わりません。
◎注:これは意外な答えだったが、諸文化のはざまに生きてきた哲学者らしい回答なのかもしれない。
Q9:ちょっと大げさな質問になりますが、デュットマンさんにとって哲学とは何ですか。
ああ(そうきましたか)! ……意味のあることを成そうとすること(道理を追求すること)です。
◎注:この回答は英語では短く”Oh!……(it’s ) Trying to make sense.”
Q10:現在、『誇張の哲学』と題された著書を準備されておいでです。この本について紹介してくれませんか。
これまで書いてきた15本から20本くらいの論文をまとめた本で、来春にズーアカンプから、ドイツ語版を刊行することになりそうです。これはもともと、私は『誇張の光輝と悲惨』という題名にしたかったのですが、出版社が『誇張の哲学』にしてくれ、というのです。ここで言う誇張Uebertreibungとは、限界を超えて押し進めることpush beyond the limitを意味します。
近刊はもう一点あります。アドルノの『ミニマ・モラリア』への序文をこの夏に仕上げたのですが、これも来年にズーアカンプから刊行予定です。長い序文で125ページくらいあります。題名は”So ist es”、英語で言えば”That’s it”です。
ほかにも論文を数編集めた小さな本『痕跡を消す』など、進行中の複数の企画があります。
Q:ありがとうございました。実り多き日本滞在になるよう心から祈っています。
編集後記:ざっくばらんな、素朴な質問をしたかった。ある意味で言えば、デリダやアドルノを論じるデュットマンのより深い一面を垣間見れたのではないかと思う。ちなみに氏と私は同じ誕生日であることが分かって、あまりの奇遇に思わず顔を見合わせて笑ってしまった。[小林浩]
■固有名の思考/思考の固有名—-デュットマン来日に寄せて / (C) 宮崎裕助
ロンドンから哲学者アレクサンダー・ガルシア・デュットマンが来日中である。昨年彼の近著『友愛と敵対:絶対的なものの政治学』(大竹弘二・清水一浩訳、月曜社刊)が邦訳され、少しずつ日本語の読者のあいだでも浸透しはじめているが、初来日を機に、1961年生まれのこの特異な哲学者について、すでに多少とも知己を得た者として、その思考のバックグラウンドやいくつかのモチーフを紹介してみたい。
デュットマンは、ドイツ人の母親とスペイン人の父親のあいだにバルセロナで生まれ、ローティーンで渡独、ドイツ語の高等教育を受けフランクフルト大学に入るが、まもなくパリでジャック・デリダのゼミにも出席、独仏間を頻繁に往来するようになる。25~7歳のときにフランス語で書いたデビュー作『与えられた言葉:記憶と約束』(1989年、ガリレー社刊)はデリダのゼミでの成果であり、デリダ自身の編集する叢書「フィロゾフィ・アン・エフェ」(これはフランス語圏におけるデリダ派のいわば牙城となっている叢書である)に収められた。ほどなくしてフランクフルト大学に提出した博士論文が『思惟の記憶:ハイデガーとアドルノについての試論』(1991年、ズーアカンプ社刊、邦訳は月曜社より近刊予定)として出版され(本人言によると、この博士論文は、主査を務めたアルフレート・シュミット[アドルノの弟子として知られる]によって「デリダ派」のレッテルを貼られ、そうとう物議をかもしたということだ)、これら独語と仏語の二著をもって、デュットマンは哲学者としてのキャリアを確立した。以降、哲学、政治学、美学、文学、精神分析、エイズ論や写真論など、多分野にまたがる旺盛な著作活動の一方で、フランス、アメリカ、オーストラリアなどで教鞭を執り、現在は英国ミドルセックス大学現代ヨーロッパ哲学センターの教授を勤めている。
デュットマンの主要な著作はドイツ語がオリジナルであり、彼はデリダの『精神について』『法の力』『他の岬』『信と知』といった著作の独訳者としても知られているが、以上のような出自を背景に、西・独・仏・英語を流暢に操り、ヨーロッパの多言語世界を縦横に行き来しつつ活躍してきた。現在は英語圏を主な活動の場としており、彼の著作のほとんどが英訳され、彼自身のチェックを経て出版されている。こうした多言語横断的な哲学の実践は、重要な意味で、デリダから受け継がれたものだ。ギリシア語やラテン語を解釈するハイデガーのドイツ語を仏訳しつつみずからの著作を書き、英語でも教えるといったデリダと同様、デュットマンの思考は諸言語のはざまで練り上げられている。もちろん多数の言語に長じることが思考の質を保証するのではないが、ひとつの思考が所与の言語的制約を超えた射程を獲得するためには翻訳の試練をくぐり抜けねばならないということなのだ。デリダが脱構築のスローガンを「plus d’une langue(ひとつならずの言語/もはやひとつの言語はない)」としたように、デュットマンは文字通りそれを思考の条件として遂行するのである。
ところで脱構築(ディコンストラクション)といえば、70年代デリダのアメリカ進出に伴って、ひとつの洗練された文学批評の方法として受容されていたが、80年代も後半になると(あらゆる流行の常として)使い古され凡庸化され、他方、脱構築批評の主導的役割を果たしたポール・ド・マンの「ナチ関与」の過去が暴かれるや、急速に衰退した。90年代には全体として文学理論そのものの地位が後退し、より歴史主義的なアプローチのもと、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル批評、フェミニズムやクイアー研究といった諸領域へと分業化することで、批評理論や現代思想のシーンは雲散霧消してしまったかに思われる。とはいえ、そうした帰趨とはまったく別に、デリダ当人は絶え間なく無数の著作を発表し続けてきたのであり、ド・マンを中心としたかつての「イェール学派」のようなまとまりをなすグループはもはや存在しないにせよ、デリダとの連係ないし緊張関係において生産的な仕事をしてきたポスト・デリダの理論家は一定数名指すことができるだろう。なかでもロドルフ・ガシェ(Rodolphe Gasche, 1938-)、サミュエル・ウェーバー(Samuel Weber, 1940-)、ヴェルナー・ハーマッハー(Werner Hamacher, 1948-)といった英語圏で活躍するドイツ系哲学者たちの仕事は、日本ではあまり知られていないが、いわば「脱構築以後」を形づくる布置の最良の部分を成しており、デュットマンは、そうした人々のうちでも最も若い世代の俊英として、そこに含めることができるのである(ドイツ哲学の研究ということでは、近年続々と邦訳が出ているが、デリダの盟友たるジャン=リュック・ナンシーとフィリップ・ラクー=ラバルトの存在も大きい。だが彼らの仕事を引き継ぐ者は、フランス語圏にはもはや不在のように思われる)。
これらの哲学者が、デリダの凡百のエピゴーネンと一線を画しているのは、たんにデリダからなにがしかの影響を受けたというだけでなく、デリダ自身の問題領域からは各々独立した地点から仕事をし続けてきた点にある。それどころか、むしろデリダの方が、彼らに触発されみずからの問題設定を形づくってきた面も多い。そのなかで最も顕著で重要なトポスのひとつになっているのは、二〇世紀の二つの世界大戦を挟んだ時期とその余波のなかで生まれたドイツ思想への取り組み、とりわけ戦間期のユダヤ系ドイツ人の思想家(コーヘン、ブーバー、ローゼンツヴァイク、ショーレム、ベンヤミン、アドルノ、アーレント等々)についての考察だろう。これらの思想家に共通して見いだされるのは、戦中戦後の激動と混沌のなかで、啓蒙主義や議会制民主主義といった「ヨーロッパ近代」のあらゆる前提が崩れ去るという破滅的な状況、また、そうした近代的理念への根本的な異議のもと、ドイツのナショナリズム、愛国主義、軍国主義とユダヤの神秘主義やメシアニズムが(批判的にであれ肯定的にであれ)両義的な仕方で関連し合うというきわめて錯綜した状況である。さらには、こうした思想が、奇妙な仕方でハイデガーやシュミットといった非ユダヤ系ドイツ人の(ある意味で「極右の」)思想とも通じ合うという困難な状況でさえある(デリダはこの状況の構造をユダヤ‐ドイツ的「プシュケー」[プシュケーは「精神」とともに「合わせ鏡」をも意味する]と呼んだ)。「ヨーロッパ近代」の危機が最も尖鋭な形で露呈した戦間期のドイツ思想への視角は、たとえば、デリダの『法の力』第二部をなすベンヤミンの『暴力批判論』の読解という形で明確に現れているが、これをハーマッハーやデュットマンらの『暴力批判論』論を対照させつつ検討することは、きわめて興味深い作業となるだろう(前者の「アフォーマティヴ、ストライキ」を収めたハーマッハーの一連のベンヤミン論集は、月曜社より邦訳出版が計画されている)。
デュットマンがデリダとも他のポスト・デリダ派の哲学者たちとも違うのは、以上のようなコンテクストのもとで、ベンヤミンだけでなく、アドルノ、ハーバーマス、アクセル・ホネットといったフランクフルト学派の伝統とも継続的に対話を行ってきたという点である。デュットマン自身は、ハーバーマスやホネットといった戦後世代のフランクフルト学派の理論家に対しては一貫して批判的であり、彼をフランクフルト学派の末裔と呼ぶのは留保がないわけではない。だが、大局的にみれば、フランクフルト学派の命脈を特異な仕方で継承しようとしている稀有の哲学者だということができるだろう。その意味で、デュットマンにとってのキーパーソンはアドルノである。「アウシュヴィッツ以後」を現代の思考の命法とし、アウシュヴィッツという名のもとに、哲学の概念的思考には還元しえぬ歴史的出来事の特異性を執拗に問い続けたアドルノの試みは、デュットマンがデビュー以来一貫して引き受けてきた問題系の核心にある。こうした名をめぐるデュットマンの思考は、たとえば、ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』に寄せた書評(邦訳『月曜社通信』2003年5月25日号)にも看て取ることができる。その議論を簡単に振り返っておこう。
アウシュヴィッツの歴史的な特異性は、ガス室での常軌を逸した、まさに前代未聞の証言不可能な出来事が証言を求めているという点である。この特異性は、証言一般の構造を解明するものであるという意味でとりわけ哲学的に重要である。なぜなら、いかなる証言もこれまでにけっしてなかった一回的な出来事を証言するのでなければ、つまり証言不可能だったものを証言するのでなければ、ひとつの出来事への証言は実際にはなされなかったことになるだろうからだ。それゆえむしろ、証言不可能性とは、証言そのものの構造を積極的に構成する条件なのである。だが、こうしてあらゆる証言を基礎づけるような出来事として、アウシュヴィッツの特異性を範例化するやいなや、アウシュヴィッツという名の特異性は抹消されてしまう。というのも、もし証言一般の普遍的な条件としてアウシュヴィッツを理解するのであれば、証言されるべきいかなる(非アウシュヴィッツ的な)出来事もいくばくかの「アウシュヴィッツ的なもの」を含んでいることになり、結局のところ、アウシュヴィッツと名指された一回的な出来事もアウシュヴィッツと呼ばれる必然性を失うことになるからだ。では、アウシュヴィッツをたんに「言語を絶するもの」へと神秘化しないためには、アウシュヴィッツの特異性、つまり言語の表象可能性からこぼれ落ちるこの「残りのもの」を、いかに救い出せばよいのか?
アガンベンが断章形式でいくどもパラフレーズしながら問い直しているアウシュヴィッツのアポリアを、このような仕方で、デュットマンは、アウシュヴィッツという名が担う〈これまでにけっしてない〉出来事の唯一性と、それが〈つねにすでに〉概念化されてしまう遍在性とのあいだの弁証法的な関係へと圧縮して提示している。そこからさらに押し進められる問いは、哲学が概念化をもたらさねばならないかぎりで自身の不可避的な盲目性として含み込んでしまう「固有名への無関心」である。哲学がアウシュヴィッツという名をそのものとして引き受けようとしたとたん、歴史的な範例としてそうした「口実や機会をひとつの固有名と同一視することは、たしかに偶発的である」にとどまらざるをえない。アウシュヴィッツとは何か、なぜアウシュヴィッツでなければならないのか—-こう問いかけることで哲学はその名固有の意味や本質をとらえようとするがゆえに、かえってこの名そのものには到達することができないのだ。こうしてデュットマンは「アウシュヴィッツの残りのものについての議論は、概念が固有名の抹消を行なう、その諸々の仕方に関わるのである」と結論づけるのである。だが、デュットマンの議論はアウシュヴィッツの特異性を前にした哲学の無力さをたんに強調したいのではない。アドルノなら述べたであろうように、ひとつの名は、まさしくいかなる概念や観念も超出する「残りのもの」を含むからこそ、概念化の労苦を要求しているのである。それなくしては、当の残余に向き合うことすらありえない。そのような意味で、アウシュヴィッツをひとつの残余として語ることは、デュットマンが正確に記しているように「アウシュヴィッツに関係しないでおこうとはし《ない》ことなのだ」。この二重否定こそ、アウシュヴィッツという名の思考に要請された命法にほかならない。
固有名の、いかなる言語間でも翻訳不可能(というよりつねにすでに翻訳済み)であるような特質を指して、ユダヤ人の分析哲学者ソール・クリプキは、あらゆる可能世界を貫通する「固定指示子」と呼んだ。アレクサンダー・ガルシア・デュットマンの哲学は—-そのようなものがあるとして—-固有名への思考であると同時に、まさにひとつの思考の固有名として諸言語間、諸テクスト間を横断するのだと言うことができるかもしれない。ここでは私は、デュットマンという名を、一方にデリダと脱構築、他方にアドルノとアウシュヴィッツという双方のコンテクストのなかに位置づけてみた。だが、日本のコンテクストのもとでこれからその名をいかに引き受けるのかは、もちろん今度は、注意深く彼のテクストを読みその言葉に耳を傾けることを通じて、われわれに課されることになる問いである。今回の来日がそのための積極的な機縁となることを願いたい。
◎宮崎裕助(みやざき・ゆうすけ)[「崎」は「山」へんに「竒」]:1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程在籍。2001年より2003年まで英国ミドルセックス大学現代ヨーロッパ哲学センター修士課程在籍、同修了。専門は哲学・表象文化論。共訳書に、ジャック・デリダ著『有限責任会社』法政大学出版局刊がある。
■デュットマン講演「決断と主権」をめぐる覚え書き / (C) 清水一浩
去る7月18日に、アレクサンダー・ガルシア・デュットマンが、フランクフルト・アム・マインで講演を行った。当初予告されていた演題は「Odd moves: Ironie und Politik(奇妙な動き—-イロニーと政治)」というものだったが、講演を始めるにあたって、デュットマン自身によって演題の変更が告げられた。彼は「9月に東京で講演するので、今日までその原稿の準備にかかりきりになっていた。そこで今日は、その原稿を読みたい」といって、話を切り出したのである。変更された演題は「Entscheidung und Souveraenitaet (決断と主権)」とされていた。
講演では、「概念を規定すること」—–概念規定によって事柄を分解・分析することが思考の仕事であるならば、概念を規定することが思考それ自体だと言うことさえできるだろう—–が一般的に「(思考の)決断」の瞬間においてのみ成立しうることから始まって、シュミットの考えるような「決断」と「主権」が思考にとって一つの範例になりうることが示され、そこから、そのような範例としての主権的決断のロジックが、ジャック・デリダ、ジャン‐リュック・ナンシー、ジョルジョ・アガンベンなどの考察を導きの糸としながら、追跡された。
個人的に興味深かったのは、次のような議論である。決断概念をその根底まで掘り下げて考えてみると、ある制限と無制限との短絡が見出される。つまり、そもそも決断が何らかの意味をもつ概念として理解されるためには、決断の瞬間には、制限されることと、制限されないこととが、同時に働いていなければならない。この同時性、この短絡が惹き起こされる瞬間が、最も厳密な意味での決断の瞬間である。
しかし、ここでいう「制限」「無制限」を、どのように理解したらよいのか。
そもそも、このような議論は、ジャック・デリダが『法の力』で展開していたものである(デュットマンは、『法の力』の独訳者でもある)。一方で、ある事柄に対して誠実な、正しい決断が下されるためには、その決断は、勝手気ままに下されるものであってはならない。たんに勝手気ままなだけの決断は、はじめから「正しい決断を下そう」という理念を放棄しており、それゆえ、厳密な意味で受け取られるべき「決断」と呼ばれるに値しない。したがって決断は、事柄に即した思考を前提にせねばならず、それゆえ、そのような思考を律する規則を前提にせねばならない。このような規則の前提は、決断を下す力に対する制限を表している。かくして決断は、制限されていなければならないのである。
しかし他方で、決断が厳密な意味での決断であるためには、いかなる規則も前提にされていてはならない。というのは、ある決断が、何らかの規則から無理なく導き出されるようなものでしかないのなら、そのような決断は、決断というよりもむしろ、たんなる自然の成り行きに過ぎないからだ。あらかじめプログラムされた決断は、厳密な意味での決断ではない。したがって決断は、いかなる規則によっても、制限されていてはならないのである。(ここで教科書的な言葉遣いを用いるならば、「決断」は自然の領域ではなく、自由の領域に属していなければならない、と言うこともできるかもしれない。)
かくして決断は、つねに、制限されていると同時に制限されていない、ということになる。デリダの言葉でいえば、これは一つのアポリアである(「アポリア」は、「進むべき道がなく、進退窮まった、困難な状態」を指すギリシア語に由来している)。
フランクフルト講演から離れていえば、『友愛と敵対』においても、デュットマンは、こうした決断のアポリアを明に暗に問うていた。カール・シュミットは、ヘーゲルの弁証法を参照しつつ、決断のアポリアをどのように考え、どのように解決しようとしていたのか。つまりシュミットは、どのようにして、決断における制限と無制限の間に交渉をもたらそうとしたのか。また、どのような計算によって、制限と無制限をつりあわせようとしたのか。決断の無制限性は、どのような計算において、どのように縮減・制限されることになったのか。しかし、それはそもそも制限されうるものなのか。されえないとしたら、決断の無制限性は、決断の制限性とどのような関係をもつことになるのか。これらの問いにおいて、決断概念の成立の可能性が—-したがって、「政治的である」ということの意味それ自体が—-もっとも根底的なところで問われていたのである。
『友愛と敵対』(月曜社刊)において、デュットマンは、もっとも範例的な決断として、「敵を敵として同定する」決断を、検討の俎上に上げていた。そして、この範例的な決断概念のうちに、シュミット自身の指示に従って、ヘーゲルの「承認」概念における弁証法を見出していた。敵を敵として同定する決断とは、敵を敵として承認することなのである。承認の弁証法においてデュットマンが強調するのは、しかし、承認が成立することのロジックではない。むしろ強調されるのは、承認するということのうちに、承認されえないものがなければならない、ということだ。逆にいえば、承認されえないものこそが、承認されうるものである。このパラドクスは、決定のアポリアと突き合わせて考えると、分かりやすいだろう。つまり、プログラムされた決断が厳密な意味での決断ではありえないように、初めから承認しうるものだけを承認するのだとしたら、それはそもそも承認ではなく、たんに自然な認識にすぎないのである。
かくして、承認するということのうちで、承認の可能性と不可能性が、同時に成立していなければならない。このような(止揚されえない?)弁証法、このようなアポリアを、デュットマンはドイツ語で「Uneins」と言い表す。ここで「Uneins」とは、「不和をかかえている」、「ぴったり一致していない」、「一つではない」といった意味である。承認は「Uneins」である。つまり承認は、承認されてしまった状態に汲み尽くされはしないし、また、承認されえないことのうちに解消してしまうわけでもない。承認は、承認することの可能性にも不可能性にも「ぴったり一致していない」のであり、承認は自らのうちに、自らの可能性と不可能性の「不和をかかえている」。承認は、それ自体として「一つではない」。しかし、それが承認ということの可能性の条件である。
この「承認」と「Uneins」は、デュットマンの思考において、一つの持続的なモティーフを形づくっている。『エイズとの不和(Uneins mit AIDS)』『諸文化のはざまで—-承認への闘争における緊張状態(Zwischen Kulturen: Spannungen im Kampf um Anerkennung)』といった著作でも、このモティーフがそのつど取り上げられ、練り直されている。一般化していえば、デュットマンは、ある事柄がそれとして認識され、意味ある言葉遣いによって記述され、思考されるときに—-これはまさに事柄の「承認」である—-、その事柄が、それ自身のうちに「Uneins」を孕まざるをえないことのロジックを追求している。それは、厳密な思考を「何でもあり」の無根拠状態に解消することではなく、むしろ逆に、厳密な思考の可能性を、その根底まで問うことなのである。
◎清水一浩(しみず・かずひろ):1977年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程在籍。2003年より渡独、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学のヴェルナー・ハーマッハーのもとで学んでいる。専門は哲学・倫理学。共訳書に、アレクサンダー・ガルシア・デュットマン著『友愛と敵対』月曜社刊がある。