森山大道のOn the Road
1964年、デビュー (5)
大竹昭子
東松と森山では8歳の年齢差がある。東松が終戦を迎えたのは12歳。それまで受けてきた皇国教育が戦争終了と同時に崩れて価値観が激変するのを経験、その理不尽さが写真に向かわせる動機のひとつになった。
一方、森山が終戦を迎えたのは7歳のときで国民学校の一年にあがっていた。東松が問題意識をもって基地にむかっていったのに対し、森山が生理的な記憶をたどっていったのは、戦争体験のくぐり抜け方がちがっていたことが大きく関わっている。戦争や占領に疑問や違和感を抱くにはまだ幼く、体感的な記憶だけが強烈に残ったのだった。それを撮ることを通じて再確認していくことが横須賀をスナップする根拠になったのである。
秋中ずっと横須賀に通い、撮り終えたところに黒木和雄監督から『とべない沈黙』のスチール撮影の依頼が来た。紹介してくれたのは東松だった。東松は『岩波写真文庫』の仕事をしていた関係で岩波映画製作所にいた黒木と知りあいだったが、自分はできないからと森山にまわしてくれたのだ。2ヶ月間にわたって九州から北海道を縦断する。その後繰り返し行われる全国の旅の第一歩だった。
—この旅にはどんな記憶がありますか。
「ぼくは人見知りが激しくて、いまは結構しゃべるけど、むかしはもっとしゃべらなかったし、もともとスタッフワークって苦手なんです。でも黒木さんはドキュメンタリー出身だから劇映画とはスタッフの雰囲気もちがって、撮影部の人たちとはすぐに打ちとけられて楽しかったですね。若き日の鈴木達夫さんなんて迫力あったし、鈴木さんの撮影助手だった田村正毅さんとはいちばん仲良くなって、よく一緒に飲みにいったりしました」
—撮影そのものはどうでしたか。
「細江さんの助手を辞めてまだ間がないですから、細江さんのカメラワークが体に残っていて、それをぼくなりに使ってみた気がしますね。彼は小説を写真化するというのを雑誌でずいぶんやっていたのでうまいわけです。 ぼくとしてはいい仕事をしたという充実感はあんまりなかったけど、それを見て篠田正浩さんが翌年に『処刑の島』(1966年 武田泰淳作『流人島にて』の映画化)のスチールを依頼してきたから、それほど出来は悪くなかったのかな。 『にっぽん劇場写真帖』の中に加賀まり子さんの写真が入ってますけど、あれはそのときのスチールです。広島の被災者部落で原爆に照射されたイメージを撮ったんですけど、最後には加賀さんが、森山さんには撮らせないと怒り出して。女優寄りではなく作品のイメージで撮ったから。でもそういうことが出来たのもスタッフと気持ちが一致していたことが大きいですね」
—いちばん印象に残ったロケ地はどこですか。
「それはもう北海道です。子供のときから北海道の異国情緒みたいなところに惹かれていて、サイロとか時計台とか、そんなありきたりなものだけど、本に載っている写真を見て憧れてましたから。石狩や釧路の根釧原野、あと屈斜路湖や川湯のほうにも行きました。ロケの合間にひとりで町をふらついて撮ってました」
ロケからもどるともう年の瀬が近づいていた。年末になって東松の紹介で『現代の眼』の編集者をしていた中平卓馬と知り合う。彼は東松の勧めで雑誌にグラビアページを設け、自らも写真を撮って変名で掲載するなど、写真に入れ込みはじめている時期だった。同い年の上に、逗子の線路を一本へだてたところに住んでいるなど共通点が多く、ふたりは急接近していく。胎児シリーズを掲載することを即決したのも、「無言劇」のタイトルを付けたのも中平だった。「写真家になる」と宣言して中平が退職してからは、転校が多く高校も中退で同世代の友人が少ない森山にとって互いに刺激しあえる貴重な友人になってゆく。
このように重要なことが連続して起きた1964年だったが、この年は日本社会にとっても気ぜわしい1年だった。10月に東京オリンピックが開催され、敗戦の混乱から立ち上がったことを世界に示すために国をあげての大騒動になったのである。
この1年間に完成したものを挙げてみるとそれがよくわかる。大阪・東京間に新幹線が開通、羽田空港にモノレールが通じ、地下鉄銀座駅では5つの路線が地下道で結ばれ、新宿駅には250件の商店・食堂の入ったステーションビルができた。工事は東京だけではなく地方にも及び、九州横断道路、佃大橋、琵琶湖大橋などが相次いで開通した。
森山自身はオリンピックにからんだ記憶は特にないと述べている。『フォトアート』でカヌー競技の練習風景を撮りに行ったのが唯一の接点だが、このときの写真を見るとおもしろいことに気づく。ワイドレンズを使い、その一部を引き伸ばして粒子がざらざらに荒れたプリントを作っているのである。これがアラした最初かもしれないと森山は言う。
60年末から70年代にかけて森山は像がアレたりブレたりした写真で写真界に衝撃を与えたが、このときはまだそうなることは知らない。取材対象に興味が持てず、欲求不満を抱えて苦肉の策としてそうしたのだった。粒子のアレは彼のいらだちと違和感の表出だったのである。
大竹昭子(おおたけ・あきこ)
ノンフィクション、エッセイ、小説、写真評論など、ジャンルを横断して執筆。トークと朗読の会<カタリココ>を各地で開催している。 著書に『この写真がすごい2008』(朝日出版社、2008)、『きみのいる生活』(文藝春秋、2006)、『眼の狩人』(ちくま文庫、2004)、短編集『随時見学可』(みすず書房、2009)、『あの画家に会う 個人美術館』(新潮社とんぼの本, 2009)、長編小説『ソキョートーキョー』(ポプラ社、2010)など他多数。
web: 紀伊國屋書店「書評空間」の同人。草森紳一記念館「白玉楼中の人」で「目玉の人」を不定期連載。