ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト
月曜社ウェブサイトにて連載中の「ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト」の第13回となる、第一部第一篇第四章「自然の多様な混合物と構成物について」は、第一部第一篇「物体の諸要素とそれらの構成について」の完結編であり、月曜社より今年2月に創刊された思想誌『多様体』第1号に特別掲載された(381〜389頁)。このたびの連載第14回からは、第二編第二章を訳出していく。ここからは「自然的な器具」としての火の本性とその機能が問題となる重要な箇所である。なお、第二編第一章「自然の仕掛けについて」は、連載第三回および第四回に掲載されているので参照のこと。
第十四回
『化学教程』
第一部
第二編 自然的な器具instrumentについて
第二章 火について
1 〔A:51, F:61, C:104〕火の本性を知ること以上に重要なことはないのだが、この本性を説明することほど難しいこともないのである。というのも、火の力能と活動はほとんどすべての感覚対象となりうる現象effetsの原因であるにもかかわらず、しかしながらいかなる感官をもってしても私たちは火それ自体を知覚することはできないからである。その把握不可能な微細さsubtilitéから、火はもっとも精確な分析をも逃れる。またその驚くべき活動によっても、火はこれを何とか把握しようとするあらゆる努力を巧みに逃れるのである。だからといって、この〔火という〕物質について仮説というものに頼り切ることほど危険なことはないと考えられる。というのも仮説の有する偽りの側面は自然学のあらゆる分野にあまりに大きな影響を与えうるからである。したがって、この実に驚嘆すべき存在〔火〕を探求するにあたっては、いかなる仮説をも認めないようにしよう。習慣ないし偏見を通じて私たちが火に関して持ちうるあらゆる観念を精神から消そう。そして、火に関しては幾何学の方法にならって、火を完全に未知の存在と考えるようにしよう。また私たちにとってもっとも明白な火の性質に関する観念に基づいて推測することでしか私たちは火の本性を規定することはできない、そのような存在として火を考えることにしよう。
2 火の生み出す主たる効果、そして火が現にあるということのもっともよく知られたしるしは、熱chaleur、光、色、液体の〔気化〕膨張expansion、固体の希薄化raréfaction、燃焼combustion、そして融合fusionである。
3 ところで、これらのしるしこそが〔火についての〕よく知られた観念なのである。そしてこの観念をより明確にするためには以下のことを知らねばならない。〔F:66〕すなわち、火が現にあるということが示されるには上に挙げたようなしるしすべてが協働する必要があるのか、それともこれらの徴のうちの一つで十分であるのかどうか、ということを知らねばならないのである。あるいはこれらの徴のうちこの〔火という〕原素élémentに固有のものはどれであるのか、また火と他の物体とのあいだで共通のしるしがあるとすればどれであろうか、ということを知らねばならない。そして最後に、こういったしるしを生み出すのが火の絶対量によるのかあるいは相対量によるのかを私たちが判断できるようになるのは、火のしるしがすべて揃ってからか、それともそのうちのいくつかがあれば十分なのか、ということを知らねばならない。いま話題となっている〔火の〕しるしを別々に検証した後ならば、〔C:105〕こういった〔火の観念にまつわる〕問題をより解決しやすくなるであろう。ではまず、熱〔というしるし〕から始めることにしよう。
4 〔A:52〕熱が、火が現にあるということの確実なしるしであるということに問題はないであろう。というのも、火が私たちの身体ないしその一部に作用するときに私たちに生じさせる感覚によってのみ、熱というものは語られるべきなのであるのだから。火が原因となるあらゆる効果のうち、私たちの精神にとって、熱は〔火という〕語と切っても切り離せない効果なのである。そしてこの効果なしではこの〔火という〕語は私たちにとってまったく意味をなさないものになってしまうだろう。しかしだからといって、私たちが熱を感じているときに被っているものと同じようなものが、火のうちにないなどと思ってはならない(1)。火とは物体である。〔他方で〕熱とは感覚作用sensationである。熱は火の効果であるが、この効果はその感覚の中に、すなわちそれを被っている魂の中にのみ存在するのである(2)。このことから、熱の観念は私たちのうちにそれを生み出す火の本性について、決して何も教えてはくれないということが分かる。というのも、熱の観念とは純粋に精神的なものであり、火の本性はまったく物体的なものなのであるから。火傷するときに私の被る感覚に関して私の全人生を思い返してみたからといって、薪やあるいはまた火傷の原因となった炭がどのように燃えていたのかということを、その火傷の感覚から私がよりはっきりと知るということはないのである。
(1)ルソーの「しかしだからといって、私たちが熱を感じているときに被っているものと同じようなものが、火のうちにないなどと思ってはならない」という一文は、マルブランシュが反論した感覚に関する次の謬説を連想させる。すなわち「〔釘や羽が痛みとむずがゆさという感情を生み出すという〕このことから、当の感情を私たちに引き起こす対象のうちにこの感情に類似するなにものかがある、とは私たちは判断する」。ちなみに、マルブランシュ本人もこの謬説を紹介したあとで、火と火傷の痛みの例を使って、この説を反駁する。Nicolas Malebranche, De la Recherche de la vérité, I, ch. 11, § 2, in Œuvres complètes de Malebranche, t. I, publiées sous la direction d’André Robinet, Paris, J. Vrin, 1972, p.132.
(2)ルソー余白書込:効果というものが身体上に生み出されるのに対して、この効果を感じるのは魂である。
5 さらに、私たちが被る熱の温度からは、その熱の原因となる火の量について判断するための確実な規則を私たちが獲得することは決してないのである。〔A:53〕というのも、この熱によって私たち持つ感じかたaffectionは、それを感じているとき〔F:67〕の私たちの身体の状態dispositionに依存するからである。大気の温度が、わずかな寒暖が、あるいは毛穴の少しの開閉が、絶対的なものである熱の同じ温度をまったく異なった仕方で感じさせ、あるいは〔反対に〕、かなりばらつきのある様々な熱から同じ感じかたを私たちは得るのである。そういうわけで、地下蔵ないし地下洞窟は冬のあいだ私たちに暖かく思われ、〔反対に〕夏のあいだは涼しく思われるのである。実際のところ、冬よりも夏の方が地下蔵は暖かいのだが。このことをペリパトス派は彼らの言うアンティペリスタシス〔反対状況〕なるものに帰していた(1)。同様に、もしたいそう寒い日に一方の手を窓から外に出して大気に晒し、もう一方の手をかっかと燃える火に近づけ、続いて両者を同時にぬるま湯に浸けるならば、この水が火に近づけていた手には冷たく〔C:106〕、窓の外にあった手には煮え湯のように思われることは確かである(2)。乾燥し焼けつくある夏の一日の息苦しい熱気のただ中に、突然大気がどよめき、空が稲光で輝いて雷が轟く。そして、しばらくしてあまりにも大量の雹が落ちてくるために、急激に冷やされた空気が、火を求めずにはいられなくなるような寒さの感覚【原語はsentimentでしたので、感覚と訳出しました】を私たちに伝える。この種のことはよくあるのではないだろうか。あるいはまた、冬の氷河のただ中にいる人が、突然今しがた語ったような熱気の温度の中に連れ出されると、過剰な熱によって確実に死んでしまう。こういったことはしばしば起こるのではないだろうか。このことから、熱が私たちの内に引き起こす感覚の様々な度合いというものからは、この感覚を生み出す火の量やこの〔火という〕要素の本性を精確に判断するいかなる手段も得られない、と私は結論づけるのである。
(1)アンティペリスタシスの語、およびこれに関する例はブールハーフェの『化学の基礎』第1巻に出てくる(Herman Boerhaave, Elementa Chemiæ, Paris, G. Cavelier, 1733, t. I, p. 71 et seq.)。アンティペリスタシス〔反対状況〕とは、ある性質Aを持つものの周囲にそれとは正反対の性質Bを持つものが取り囲むことによって、物質中の性質Aが局所に圧縮される現象を指す用語である。この用語はギリシャ語動詞antiperihistanai(反対のものが周りに立つこと)の名詞形である。この用語を使うと、ルソーが例示している現象(冬の洞窟は暖かく、夏の洞窟は反対に寒く感じられる)は、感覚者の単なる錯覚としてではなく、異なる温度間の相互作用として説明される。洞窟の例では、洞窟内の空気よりも冷たい空気がこの洞窟を取り囲むと、多量の冷気によって洞窟内の熱気が圧縮される。この圧縮された熱気のために、冬の洞窟内の温度は暖かく感じられる(夏の場合はこれの反対である)。なお、アンティペリスタシスのこの用法は、アリストテレスの『気象論』第1巻第10章末(347b1以下)および同書第12章(特に348b以下)に由来する(以降ペリパトス学派によって継承される)。アリストテレスは『自然学』第8巻第10章でもアンティペリスタシスという用語(こちらはプラトンの『ティマイオス』79B以下に端を発する)を使う。この場合のアンティペリスタシスは、例えば投擲物の空中における運動を説明する際に用いられる。すなわち、なぜ投擲物は運動の原因である手を離れても空中を運動するのか、ということが問題である。この概念を支持する場合、あらゆる空間は「無」ではなく何らかの物質で満たされており、投げられた物質は手から離れる際にその空間を占める物質を押し退ける。この押し退けられた物質は、投擲物の後ろに回り込みこの物体を押し出し、その占めていた位置に着く。投擲運動は、このように隣接する物体同士が互いに「反対側に回り込んで立つこと(antiperihistanai)」の連続として説明される(同様にシンプリキオスの『自然学注解』1350.30-36も参照)。
(2)熱を感知する際に感覚は誤るというこの記述と同じ説明が、1757年末から1758年初旬の間に執筆された『道徳書簡』第三書簡に見られる。Lettres morales, III, OC, t. IV, p. 1094.『道徳書簡』(戸部松実訳)、『ルソー全集』第十巻、白水社、1981年、513頁。
6 〔火の第二の徴である〕光に関しては、これは火とは切っても切れないものであると多くの人が思っている。しかし光は火に関するかなり曖昧な徴である。というのも光は火なしで存在しうるし、これは(1)光なしで存在しうるのだから。火で熱せられた鉄の棒であったとしても、それが赤くなるまで熱せられていないならば、〔A:54〕この鉄の棒は暗がりの中で光を発することなどないのである。たとえその鉄の棒がとても熱く、薪を燃やしてしまうようなものであったとしてもである。〔F:68〕他方で、〔発光性を持つ〕天然のリンについて言及するまでもなく、月の光線は巨大凹面鏡miroir ardentによって一点foyerへと集められると、とても鮮明で輝く光を生じさせるということは周知のことである(2)。しかし、この〔光が集められる〕一点に温度計を置いたとしても、これほどに明るい光線はその温度計に知覚可能な効果を生み出すことはまったくないのである。さて以上が、光を持たない火と熱を持たない光である。
(1)ルソー余白書き込み:「これは」
(2)シャトレ侯爵夫人の『火の本性と伝播についての論考』(1744年)に、月の光線を凹面鏡で一点に集めても燃焼能力はないという説明がある。Émilie du Châtelet, Dissertation sur la nature et la propagation du feu, Paris, Prault, 1744, p. 102 et seq. 。
7 とはいえ、色について考えてみてもあまり意味はないだろう。色とは結局のところ様々な物体に反照ないし反射した光の様態、ないしこう言ってよければ光の部分portionsでしかない。むしろ火によって特定の物質〔の構成〕が緩むということatténuationについて語る方がよいのではないだろうか。だが火はこの〔緩められた〕特定の物質を非常に多くの別の物質へと再結合するのか。だとすると、火は複数の物体を一つの塊として集結させると言うべきであろうか。だが火はこれら物体の多くを分解しもするのである。結局のところ、私たちが火に〔C:107〕あらゆる物体の中に最も一般的に生み出す効果を割り当てたとしても、その同じ火が別の物体の中に生み出す正反対の効果も同時にかならず私たちは考えてしまうのである。
8 自然全体の中で普遍的なもののように思える火の効果はひとつしかなく、いまだにその例外はひとつとして発見されていないのである。〔ひとつしかない効果とは〕すなわち、物体の重さに知覚可能な変化を加えることなく、その物体の体積を増やし物体を希薄化することである。この法則は固体と流体のいずれの場合にも見られる。だが流体は同じ温度の熱であっても〔固体以上に〕よく膨張するが、最も軽く密度の薄い液体はさらに希薄化【分子の間の結合の緩みを表現するべく、希釈ではなく希薄を使っています】しやすい傾向を持つ。その結果として、例えば、酒精esprit de vinは、様々な度合いで希薄化しながら空気の熱の最高温度ないし最低温度の極めて知覚しやすいしるしを私たちに示してくれる(1)。ブールハーフェ氏は、この物質〔酒精〕に関する多く実験によって〔膨張率の〕差異をひとつの一般的規則へと還元させることもできるのではないかとさえ想像した。というのも、同じ温度の火によって希薄化した物体のあいだの膨張度合いは、〔A:55〕物体の〔構成〕密度と相互連関にありうるということをこれら実験が私たちに示しているからである。
(1)アルコール(当時は« esprit de vin »と呼ばれていた)を用いた温度計のことを指す。当時有名だったのがレオミュールの温度計であった。René-Antoine Ferchault de Réaumur, « Règles pour construire des thermomètres dont les degrés sont comparables et qui donnent une idée d’un chaud ou d’un froid qui puissent être rapportés à des mesures connues », Histoire et mémoire de l’Académie des Sciences, Imprimerie royale, Paris 1730, pp. 452-507. なお、ブールハーフェが執筆していた当時はレオミュールの温度計は存在していなかった。ルソーの論点は、ブールハーフェにはレオミュールのアルコールを使った温度計に繋がる発想があったということである。
9 〔F:69〕したがって物体のこの膨張は火がそこにあることの確かなしるしである。というのも、厳重に密閉されたガラス容器の中に、ワインのアルコール成分のような精性を持つ軽い液体を封じ込めても、〔火以外の〕どのような他の物理的原因によっても〔容器中の〕体積を増加させることは決してできないだろう。逆に言えば、火の活動によってのみ私たちはこの〔体積を増やすという〕効果をその容器のうちに生み出すことができる。したがって火が現に活動しているということを証明するために私たちが頼るべきは、この〔膨張効果に関する〕実験である。そしてこの実験によってこそ、私たちは火の主要な特徴を見出すことができるだろう。
10 流体の場合はすべて、その流動性のゆえに、膨張〔部分〕の体積は流体の高さによってのみ計測される。個体の方に同じ実験を行うと、その体積は〔高さ、幅、奥行きという〕全次元において増えるという結果になる。もし固体がこれと比較される別の固体へとその熱を伝達する時間を与えてしまうならば、この比較に関して正しい結論は決して得られないだろう。流体に関して言えば、それが入っている容器に火が同時に作り出す膨張を起こさずに、その流体の膨張を作り出すことはできないだろう。そしてこの膨張は〔C:108〕まったく同じ物質の場合でもとても異なることさえある。というのも、例えば〔同じガラスという種類内であっても〕最も溶融しやすいガラスは、〔この特徴を除くあらゆる点で他のガラスと〕ほとんど同じものであったとしても、最も膨張しやすいからである。
11 いかなる物体においても希薄化は火の活動とともに増大してゆく。こうして溶鉱炉の中で金属は体積をその融解の瞬間まで不断に増大させる。この瞬間の後は、これらの金属はもう希薄化することはない。ただし、次のことは念のため検証すべきかもしれない。〔A:56〕すなわち錫や鉛というような赤くなる前に溶ける金属が、〔溶解後は体積を増大させず希薄化しないという〕同じ法則の下にあるかどうかということである。というのも、このような金属が、融解の温度よりもはるかに高い温度に反応しうることは明らかであるからだ。
12 この実験から、私たちが次のように結論することは妥当である。〔F:70〕すなわち火はどのようなものであれ、塊masse全体に作用するだけでなく、当の物質がどれほど固いものであろうと、〔これを形成する〕さらに小さな粒子parcelles一つひとつにも作用し、火はこれらの粒子を運動させて、互いに引き離し、そしてその粒子が周囲へと拡散し、以前占めていた場よりもより大きな他の空間を満たすようにする、ということである。融解しうる物体において、火の激しさに比例して増すこの運動は、最終的にはその塊のあらゆる部分をあらゆる方向へと動かすのである。そして〔粒子の〕この運動こそが流体の状態を形成するものなのである。
〔以下、続く〕