ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト

第八回

『化学教程』

第一部
第一編 物体の諸要素とそれらの構成について

第一章 物質の原質について(続き)

14 化学者の通常の五つの原質に関して言えば、少なくともそれらのうちの〔水、土、エンの〕三つは、それ自体としては混合物や化合物でしかない。「精体esprit(1)とは、精製アルコールflegmeの中に溶けている酸性のエンである。そのような溶解物が硝石の精体あるいは酢の精体である。尿中の揮発性精体とは、精製アルコールの中に溶けている揮発性アルカリでしかない。[A:11]そのような溶解物が、尿の精体であり、鹿角精esprit de corne de cerfのそれである。燃精esprit ardentとは、酒精esprit de vinまたは松精のようなエーテル性油ないし弱イオウsoufre atténué以外の何ものでもない。イオウそれ自体は、火の原質と酸から構成される。[F:19]臭いのきつい諸々の油は、精製アルコールと少しの出がらしの土terre damnéeからなるものの中で溶解した揮発性エンである。エーテル性油とは、オリーヴ油に似た粘液質でどろりとした油が、諸々のエンによって〔原質間の結合を〕緩められ、精製アルコールの中で拡散したものである。オリーヴ油と発酵している何らかの流動物質liqueurを混ぜさえすれば、その油は完全に燃精に変化するだろう。酒精2リーヴルをとって、12リーヴルの普通の水の中にその酒精を拡散させてみよう。そして、この溶液全体を空気にさらしてみよう。すると揮発性エンは〔気化して〕発散してしまう。〔この溶液の〕油性部分は、玉状に集まり、〔液体の〕表面に浮かぶ。この油性部分はあらゆる点でオリーヴ油やアーモンド油に似ている。エンに関しては、エンからは〔無味の〕水と土が得られる。〔この操作は次の通りである。〕蒸留された硝石は多量の酸精esprit acideを産み出す。だが、粉末状の酒石ないし木炭とともに硝石を燃やすと、それは〔酸精ではなく〕不発揮性あるいはアルカリ性ニトロと呼ばれるアルカリ性エンになる。[C:68]もし硝石を風化作用(2)によって液化させ、この液体を紙で濾過するならば、硝石は多くの土〔残留物〕を残す。濾過されたこの流動物質を乾燥するまで蒸留器で蒸留すると、この物質から無味の水が得られる。そのまま乾燥させられたエンはさらに少なくなる。この作業を最後まで繰り返そう。するとほとんどのエンが土に変化するだろう。〔この作業によって〕エンから消えた部分が無味の水に変わったということは確からしい」(3)。

(1)本翻訳ではespritを「精体」と訳す。espritの訳語としては他に「蒸留酒」ないし「揮発性物質」を挙げることができる。しかし、いずれの訳語にも不都合がある。後者に関して言えば、例えば本段落で使われるesprit volatilという言葉を訳すときなどに問題が生じる。また本文のespritの定義が示す通り、この語は必ずしも「酒」を指すものでもない。この点で「蒸留酒」という訳語にも問題がある。このespritという語は蒸留などの化学的操作から得られる「純化され選りすぐられた物質」を一般に意味している(例えばある作家のespritというとき、それはその作家の作品の「精選集」を意味することがある。このあたりの用法にも「純化され選りすぐられた」というespirtという語の側面が見出される)。『化学教程』においてルソーがespritという語を使うとき、多くの場合、それは蒸留を筆頭とする化学的操作によって「純化され選りすぐられた物質」を意味する。それゆえに本翻訳では単独でespritという語が使われる場合、これを「精体」と訳すことにした。
(2)セナが« si on le laisse liquéfier par lui-même »と書いている部分をルソーは化学操作の用語を用いて« si on le laisse liquéfier par défaillance »と書き換えている。
(3)ルソー余白書込:セナ、第1巻、9頁〔Sénac, J.-B., Nouveau cours de chimie suivant les principes de Newton et de Stahl, Paris, Vincent, 1723.なお本14段落は冒頭の一文および後続の「イオウそれ自体は、火の原質と酸から構成される」という文以外、セナの著作からの書き写しである(この書き写しの部分を引用符を用いて明示した)。右の文に関しては、ルソーはセナの著作に登場する物質名を完全に書き換えている。セナ本人によれば「イオウは水と土に分解される」〕。

15 これらの困難のために多くの哲学者たちは物体の第一の要素を探求する煩わしさを避けるようになった。というのも、私たちがこれら第一の要素を手中におさめようと何らかの技巧を凝らそうとも、私たちの感覚は第一の要素を捉えることができないからである。それゆえ、哲学者たちはこれら第一原質prémiers principesというものそれ自体を顧みてこなかったのである。哲学者たちは、私たちが目にすることができるような感覚しうる〔化学者の言う〕第二原質で満足した。彼らは化学者たちがこれまで説いてきた五つの原質を第一原質と見なしたが、このとき哲学者たちは五つの原質が本当に単純な物体かどうか、あるいはそれらがさらに単純な原質から構成されているか否かについてあまり気にしていなかった。[A:12]だが、哲学者たちのこの手の思いなしが物体の混合や真の構成を明らかにするどころか、むしろそれらを分からなくしてしまうということは明白ではないだろうか。[F:20]これほど欠陥のある哲学するやり方にうなずく前に、真の原質の存在や性質を見つけ出し確認しうるいかなる方法もいまだにないということを証明しておくべきであろう。というのも純粋で混じりけのない真の原質は感覚による調査の範囲外にあるのであるからである。〔ちなみに原質の性質について言えば、〕原質はその組み合わせや、自然的物体の構造の中で原質同士が互いに有する結合とでも言うべきものによってその性質を形成するのである。

16 そしてついにあの二人が現れる。ベッヒャーとその有名な注釈者シュタールである。シュタールがいなければ、世界でもっとも偉大な化学者ベッヒャーはおそらく忘却の彼方に残されたままであっただろう。

17 ベッヒャー以前、化学はヤブ医者、賢者の石の探求者、薬屋、そして蒸留酒職人ぐらいしか育まなかった。自然学者たちの中で彼とボイルは化学を発展させた第一人者であるといってよいだろう。

18 実験expérienceという松明によって照らされたベッヒャーは、自然における最奥の道にあえて分け入ろうとした。[C:69]真の哲学的天才によって支えられた彼の偉大なる慧眼は、彼をして自然的物体の構成と構造について想像しうるかぎりもっとも美しく完璧なる理論を発見せしめた。ベッヒャーの著書の題名〔『地下の自然学』〕(1)からすると、彼は鉱物のみを扱おうとしていたかのように見えるし、またそのように彼自身が説明している。しかしながら、ベッヒャーの言う原質はこの書名の意とするところに反して実はより普遍的なものであることがすぐに分かってくる。動植物について研究するとき、私たちは化学からいったい何を学ぶことができるのだろうか。動植物の混合は〔その原質同士の〕結びつきが弱く微々たる力で分解される。〔この分解から〕私たちはエン、油、土、そして植物の芳香精とでも称するしかない未知の物質をまず得る。[A:13]他方で、土、油、エンは鉱物界にも豊富に存在する。[F:21]したがって鉱物界をよく研究するだけで、私たちは動植物の二界をとても簡単に知ることができるのである。

(1)Becher, Johann Joachim, Physica Subterranea, Lipsiæ, Joh. Ludov, Gleditschium, 1703.

19 物質はそれとは別の原質からさらに構成され、成り立っている場合がある。そしてこれらの原質は化学者たちの感覚や分析操作から逃れてしまうより微細なものである。物質の原質を果敢にも探求しようとした化学者たちの誤謬は、〔別の原質から構成され成り立っている〕物質のいくつかを物質の原質と見なしてしまったことである。このような誤謬は油やエンについて語りつつ私たちが見てきたものである。この誤謬を防ぐためにベッヒャーがとった予防策は混合物ないし構成された物体の構造を検討することであった。この検討は非常に念入りなものだったので、ベッヒャーは〔様々な混合物の構造同士のあいだに見出せる〕区分の段階をしるすことができた。これらの段階は、単純で同質の微小物体までの区分を含みうるものである。〔ちなみにここで言う〕微小物体とは、もはやこれ以上構成部分を持たないので、おそらく構成要素もまったく持たず、いかなる物理的な分割をも受け入れないような物体である。

20 こうしてベッヒャーは五種類の自然的物体を認めることになる。第一に、すべての物体が最終的にはそこへと分解されうる本来の意味での原質であり、これのみがすべての混合物と構成物の構成要素である。第二に、混合物である。第三に、構成物である。第四に、構成物からなる〔第二の〕構成物で、これをベッヒャーは重構成物decompositaと呼ぶ。第五に、〔重構成物をその構成に含む〕第三段階の構成物で、これをベッヒャーは超‐重構成物superdecompositaと呼ぶ(1)。

(1)混合物の構造に関する区分については、第五回連載で掲載した表も参照のこと。

21 ベッヒャーは本来の意味での原質として水と土の二種類しか認めていない。私たちはそこに空気を加える。その空気は、付帯部分partie agrégativeとしてではなく構成部分partie constituanteとしてである。このことはまた別に証明する機会もあるだろう。他方で、ベッヒャーは鉱物界においてだけでも三種類の土を発見した。[C:70]というのも、ベッヒャーは、〔鉱物、動物そして植物の〕三界それぞれに各界共通の特別な原質を振り分けているからである。彼はこの原質を主原質principia principiataと呼ぶ。[A:14]私たちは〔主原質とそれ以外の原質〕この区別が空想の産物であり、同じ原質が三つの界に存在するということを〔この時点では〕あらかじめ指摘するに留め、その証明は以下にまわすことにする。[F:22]〔ベッヒャーが見つけたと称する〕この三種類とは、第一に、火の物質すなわちフロギストンphlogistique、第二に、ガラス化土terre vitrifiableすなわち本来の意味での土、そして第三に、スイギン土ないし金属土である。

22 我らが著者ベッヒャーの理論と彼がこれを打ち立てるために用いた方法がどのようなものであったかをある程度示しておこう。

23 世界は物質的〔質料的〕原質としての空気、土そして水から構成されている。天界は形相的ないし超自然的原質(1)であり、これは空気、土、水を活動させる原質である。天界の影響力に関するこの学説はペリパトス派の名残である。我らが著者ベッヒャーはこの学説にひどく頭を悩ませたようである。というのも彼はこの学説に天使〔という観念〕を持ち出さなければならかったからである(2)。このことと同様に、〔彼が発見したと称する〕今まで知られていなかった互いに区別される種類〔に関する説〕に、物体の希薄性と濃密性を説明するために彼が用いた生得的性質〔という観念〕を持ち出さなければならなかった。しかし彼は、もっと簡単に、物体の実体substanceを構成する物質的原質がその数量において単数なのかそれとも複数なのかという点とその物質的原質同士の結びつきの度合いという二点に〔種類の区別の〕原因があると考えるべきであった。

(1)「ないし超自然的原質」の部分はルソー本人による欄外からの挿入である。
(2)「というのも彼はこの学説に天使〔という観念〕を持ち出さなければならかったからである」の部分はルソー本人による欄外からの挿入である。


訳者追記(ルソーによる草稿書込について)

書込の方法には二つある。(1)注記号(「*」など)を明記した書込で、これは《ルソー原注》と呼ぶことにする。(2)注記号を用いない、メモ書きであり、こちらは《ルソー余白書込》と呼ぶことにする。《ルソー余白書込》(注記号なし)に関しては、多くの場合その書き込みが本文のどこに掛かっているのか不明である。その場合、訳者の解釈を入れて、当該の書き込みが掛かっていると解釈しうる部分に脚注記号を挿入する。(第八回以降に適用)

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