ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト

第六回

『化学教程』

第一部
第一編 物体の諸要素とそれらの構成について

第一章 物質の原質について(続き)

7 [A:5; C:61; F:13]ここで私たちは化学的分析Analyse chimique(1)に対して何度も繰り返されてきた反論を無視してはならない。[A:6; F:14] すなわち、原質を分離するために私たちがどのような物体にも浸透してしまう外的な作用者agentに頼らざるをえないとき、この作用者がただ原質を分離することしかせず、〔別の〕原質を生み出すことはないなどといったい誰が確証しえようか、という反論である。現に私たちは、火の作用だけをとってみても、それが物体をただ変質させるだけではなく、以前には存在していなかった物体をも生み出してしまう、ということを知っているではないか。火は石を石灰化させ、エンをアルカリ化し、無数の物体の色彩とその本性を変化させる。そして、ごく弱い火であっても火にさらされることで、物質はその形状や密度の高さを失ってしまうので、いかなる方法によっても[C:62]その物質の形状や密度の高さを取り戻すことはもはやできないのである。化学を誹謗する者たちに言わせれば、化学的操作が私たちに示す原質はこのたぐいの変質の結果なのである。また、私たちの操作から得られるこれらのエン、揮発性物質、そして油が、物質のなかに一定の質と量をもって以前からあり、私たちは〔このすでにあるエンなどを〕物質から取り出すなどということをいったい誰が確証しうるのか、という反論もある。化学を誹謗する者たちは〔化学に対する〕このような反論を強調し、彼らの多くは別段疑いもせずに自分たちの反論を正しいものだと信じてさえいる。しかしながら、このように分かった気でいるというのは短絡的である。というのも、確かに火は〔すでに何らかの〕物体をなしている諸原質を〔別の原質と〕再結合させréunir、この新しい組み合わせ〔化合〕combinaisonsによって〔すでに結合状態にあった〕諸原質を分割することができるのだが、しかし火は当の原質それ自体を変えることはできないのであり、言い換えれば、〔分割と再結合によって変化してしまう〕物体は、真の原質に属するものではないということは確かであるからだ。ところで、化学を誹謗する者たちの誤謬は、混合物や化合物であるエンや油のような原質ではない物質を物体を構成する要素〔つまり原質〕とみなしてしまったことに由来する。なので、火が灰化incinérationによってアルカリ性のエン――これが取り出される植物の中には以前は存在していなかったものなのだが――を産み出したとしても、これは私たちが上に示した〔再結合、分割そして化合による〕説明とは決して対立しないのである。というのも、このアルカリはまさに同一の原質の異なる組み合わせなのであるから。植物を構成するこれらの原質は火によって分割され、以前とは別の仕方で再結合され、新しい混合物として〔私たちの〕感覚に示される。[A:7; F:15]もっとも、化学を誹謗する者たちの意見を完全に否定するためには以下のことを確かめさえすればよい。[C:63]すなわち、ある物質から引き出されたものと同一量の原質を再結合するだけで、以前と同じ状態にこの物質を再構成できる、ということを確かめさえすればよいのである。というのももしそうなれば、火は何も破壊せず、〔原質を〕変化させることもせず、火は単に〔原質同士を〕分離させることしかしないということが明白になるからだ。さてこのことは、エン、イオウ、辰砂、瀝青を分析し、これらを人為的に形成してみることによって確認できる。〔いま挙げた物質の〕原質を再結合することで、人は〔分解された物質を〕以前と同じ状態に再構成するのである。ところで物質というものは、その元のかたちpremière formeに復元できるような仕方で、原質から構成されている。しかし上に挙げた物質とは別のものの分析では、原質の混合操作mélangeによってこの物質を再び生み出すことができない、ということが起こるかもしれない。そうであるならば、実際には、これらの原質を分割することで、火はさらに〔当の物質を復元しうる原質同士の〕固有な結びつきliaison particulièreをも断ち切ったということになる。この固有な結びつきとは、原質同士の間にあり、また人間の技術ではこの結びつきをもはや再構成することができないものである。確かに私たちは、この分析によって、物体を構成していた要素を獲得することができる。しかしこの分析からは、要素〔原質〕を結びつけていた鎖chaîneを知ることはまったくできないのである。またこの分析は、各物体に固有な〔原質の〕構成と同じ種類の組み合わせによって要素〔原質〕を再結合させることを、教えてくれることもまったくないのである。そもそも化学の一般的な対象は諸物質の構成様式tissuではなく、〔その構成様式を成り立たせている個々の〕素材〔原質〕である。したがって、以上の説明に基づくと、火が原質それ自体を変質させるなどということは導き出せない。また私が先にも言及した実験から、私たちは次のような結果を常に得ることができる。すなわち火は、何らかの物質に対してそれの要素〔原質〕を分割するという仕方でしか働きかることopérerはできず、もはや復元しえない物質に対して、火はこの分割以上の効果を生み出すことはできないのである。ある一つの動因の作用actionは常に同一であり、この作用それ自体のうちにではなく、むしろこの動因が作用する対象〔物質〕sujetの各構成のうちに、〔作用の効果の〕違いの原因を探求すべきである。つまりその〔動因の〕作用が対象に生み出した様々な効果effetsのうちにある違いである。ところで、自然の様々な物質を分析してみると同一の原質が常に見出される。それゆえに次のことは明らかである。すなわち、ある分析において火が原質を変質させることができないならば、他の分析においても火は原質を変質させることは決してないのである。[F:16]そして、諸原質を以前と同じように再結合させることの難しさは、ただ原質の組み合わせと各物質に[A:8]固有な構成様式contextureの中にのみあるのである。

(1) ルソー原注:化学的分析については、器具について語る第二編の中で再び触れ、改めて取り上げられるだろう。

8 事物の原質は質料的なものと形相的なものen matériels et formelsとに区別される。

9 私たちは、非常に細かく、根源的で、単純で、分割できず、不可入性(1)をもった究極的に小さい何らかの粒子のことを物体の質料的な原質と呼ぶ。というのも質料的な原質は、「ある部分に対するさらなる部分のpartium extra partes」延長というものを現に持つことはないからである(2)。[C:64]また質料的な原質は、私たちが知ることのない特定の形象〔形相〕figureの一つへと各々が寄せ集まるという性質を持っている。そして質料的な原質からあらゆる物体が直接的あるいは間接的に(3)形成され、またあらゆる物体はその質料的な原質へと分解されうる。アリストテレスは可入性を彼が言うところの要素の属性と定めたが、二つの異なる物質の粒子が同じ瞬間に同じ場所を占めているということは明らかに不合理なことである(4)。物質を無限に分割するという考えに関して言えば、無限分割説を支持するものであろうとこの説に異を唱えるものであろうとすべての推論は水掛け論にしか行き着かないように私には思われる。もしこの仮説の支持者が、この仮説の名のもとに、神は個々の原子atomeを二つに分割することができるという仮想上の分割une division virtuelleのみを考えており、かつもし神がこの切断をよしとされるのであるならば、誰もこのことについて彼らとやり合おうなどとは思わない。彼らの凡庸な推論が意味するすべてのことは、物質としての粒子は、それをどれほど小さなものと想定しようとも、常に上下左右などの側面をもっている、ということに過ぎない。しかしもし、物体は実際に無限分割され、もしくは物理的に無限に分割されうるようなものとしてあると彼らが主張したとすれば(5)、[A:9]無限の間隙なるものをどうしても認めなければならなくなるだろう。[C:17]この無限の間隙という考え方でもって、ゼノンはほんのわずかな物質〔要素〕も宇宙には存在しないということを彼らに証明したことだろう(6)。

(1)不可入性については、『化学教程』第二回連載の第3段落訳注10を参照せよ。
(2)「『ある部分に対するさらなる部分の』延長というもの」と訳した箇所の原語は« l’extentsion partium extra partes »である。ラテン語部分« partes extra partes »は字義通りには「部分のさらに外部の部分」と訳せる。しかしルソーがこの表現を使っている文脈は無限分割を批判することであり、そのため「部分に対するまたその部分」というニュアンスを出して意訳した。ルソーがここで問題としている「質料的な原質」とはある物体の部分としてそれを構成する最小単位としての「粒子corpuscules」であり、その重要な属性の一つが分割不可能性である(ちなみにギリシア語のatomonは字義通りには「分割不可能なもの」を意味する)。この最小単位としての「粒子」に対してその「部分」を認めてしまうと、この「粒子」よりもさらに小さい単位を認めてしまうことになり、さらにはその新しい部分へと「粒子」を分割することができることになってしまう。「ある部分に対するさらなる部分」へと部分を無限に設定してゆく操作は無限分割を生じさせてしまい、さらには有限な物体が無限な「部分」を持つという矛盾を生じさせてしまう。ルソーは当段落の後半で「ゼノンのパラドクス」を援用しつつまさにこの無限分割説を無益なものとして批判するのである。ルソー流「ゼノンのパラドクス」がどのようなものであるかについては当段落訳注6を参照(なお« l’extension partium extra partes »に関しては、同様に、 Frédéric Charbonneau, L’art d’écrire la science : anthologie de textes savants du XVIIIe siècle français, Québec, Presses de l’université Laval, 2005, p. 168, note 313も参照)。
(3)「直接的」、「間接的」という表現は本書第一部第二章で語られる混合物の次元を指すと思われる。
(4)ルソーはアリストテレスが「可入性を彼が言うところの要素の属性と定めた」と書いているが、この主張はルソーの誤解であると思われる。というのもアリストテレスは『自然学』においても『生成消滅論』においても「要素stoicheion」に「可入性」なる「属性」を認めていないからである。むしろ彼は思考の基本原則の一つである矛盾律が適用された「二つの異なる物質の粒子が同じ瞬間に同じ場所を占めていることは明らかに不合理である」という主張の方を支持したであろう(例えば『自然学』第四巻第五章212b 25を参照)。
(5)ルソーは欄外にヘルマン・ブールハーフェ(1668-1738)の著作『科学の基礎Elementa chimiæ』(第一巻「火について」の章、第二実験、80頁)からの引用を書き込んでいる。すなわち「したがって諸粒子を一つにまとめるような何らかの原理が、まとまった塊〔=質料〕の中に全能の創造者神によって組み込こまれたのである。それは自発的に生じた力であろうと人為が生じさせた力であろうと、いかなる自然の力もその粒子をそれよりさらに小さく分割できないようにするためである。それゆえ、これらの粒子は外から加えられるあらゆる強い力に対してもっとも堅固に持ちこたえるのである」。ブールハーフェの著作に関しては、ルソーは1733年出版のラテン語原典を使用している。 Herman Boerhaave, Elementa Chemiæ, Paris, G. Cavelier, 1733, t. I, p. 80.
(6)ルソーは、物体の物理的無限分割説を批判するために「無限の間隙」の問題を引き合いに出している。ルソーがゼノンの名とともに示しているパラドクスは次のようなものである。すなわち粒子論の枠内で物体の分割可能性を説明するとき、分割可能な物体とは無数の「粒子」から構成されている物体を意味している。ところでこのような物体には構成要素である粒子と粒子の接触面以外に「隙間」があり、逆に言えば「隙間」の存在は、「粒子」によって構成されているという状態を示している。したがって粒子論の視点に立つならば物体の無限分割は、物体のうちに「無限の隙間」がなければ不可能である。もしこの「無限の隙間」の存在を認めるならば、必然的に物体を構成する最小単位としての分割不可能な「粒子」ないし「要素」は存在しないことになり、さらに言えば有限な物体には「無限の隙間」すなわち無限の空虚videsがあるという矛盾した状況を想定せざるを得なくなる(この矛盾については当段落訳注2も参照)。つまり無限分割説は物質を構成する最小単位の存在を定義上否定し、「わずかな物質〔要素〕も宇宙には存在しない」という不条理を導き出してしまう。ちなみにアリストテレスも『自然学』の中で「ゼノンのアポリア」に言及している(第四巻第一章209a 23-24)。しかしアリストテレスは「場所topos」とは何かという問いに答える文脈でこの「アポリア」に触れており、したがって無限分割の問題とは関係がない。アリストテレスによれば、ゼノンはもし「場所」を「存在するものta onta」の内の一つと見なした場合、その「場所」はまた別の「場所」にあるもの(存在するもの)である、という「アポリア」を指摘した。つまりある「場所」はまた別の「場所」にあり、この「場所」もまた別の「場所」にあるというこのような関係が無限に連鎖するという「アポリア」である。

【続く】

上部へスクロール
Copy link