ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト

第四回

『化学教程』

第一部
第二編 自然的な器具instrumentについて

第一章 自然の仕掛けmécanismeについて(続)

 叡智的な存在Être intelligentは、あらゆる事物の能動的な原理principe actifである。このことを疑うためには、良識bon sensを放棄しなければならない。そして、これほど明白な真理の証拠を挙げるなどということは、明らかに時間の無駄である。疑いなくこの永遠の存在は、[C:100]その力と意志とを直結させ、両者の協同concoursによって宇宙を創り出し、維持することもできたであろう。だが、このことにも増して、一般的な法則を自然〔という機械〕のうちに設定したことが、むしろ永遠の存在の叡智の名に値するのだ。そしてこうした諸々の法則は、決して互いに矛盾せず、〔法則の〕効力はただそれだけで世界とその内にあるものとを維持してゆくのに十分なのである。立法者〔叡智的な存在〕などいない、と歪んだ知性をもったひとびとに言わせているのは〔当の叡智的な存在が設定した〕法則それ自体であり、またこの法則をきちんと管理しているこの存在の誠実さである、などということが果たして信じられるものであろうか。〔これらのひとびとが言うには〕物質は〔法則に〕従っている、[A:47]ゆえに誰も命令していない。この奇妙な推論を絶えずなすならば、ひとは無神論に陥ってしまうことになるだろう。

 これらの法則のうち、どれが第一のそして最も一般的な法則であるかを決定するためには、宇宙の構造structureをいままで以上に知らなければならない。これらの法則は、もしかしたらすべて唯一の法則に還元されることもあるのかもしれない。このように考えたひとは、決して少なくない。事実、ニュートンは、引力という原理だけで、自然の現象のすべてをほとんど説明してしまった。〔このニュートンの事例が示している通り〕私たちは、宇宙の動因agentが運動mouvementであるということをよく理解している。運動が、あらゆる物事に共通して働いているということを、またそれなしでは何も生じず、それが物質に実に多くの様態を与えることができるということをよく理解している。ところでデカルトは、この唯一の原理〔運動〕から、全宇宙の生成を引き出すことができると主張した。〔こうして〕彼は、愚かにも特異な体系を構築してしまったのだ。そして彼は、期せずして、唯物論者たちに武器を提供してしまった。この唯物論者たちはといえば、〔彼らの体系にとって〕必要不可欠な運動を物質の属性にしてしまうことによって、物質を〔彼らの〕神に祭り上げたのである。この神が世界を創造し維持しているというわけだ。

 諸々の天体は、みずから運動する。だがそれが、いったい何のうちで、またどの原理によって運動しているのかを私たちは知らない。太陽は、毎日私たちに恵み深い日光を送る。それは地上で、生命と運動とを維持するためである。そして太陽がないならば、自然のなかのあらゆるものが消滅してしまうのである。しかしながら、宇宙に存在する太陽も、その他の天体も、あらゆる火も、あらゆる運動も、全植物の内のたった一握りをも、また全昆虫の内で最も卑しいものをも創り出すことはできないのである。生成に関するこの深淵のなかで、哲学者たちは、あまりにも長く道を見失っていた。そしてこの深淵は、今日でもなお、不信の徒の悩みの種なのである。運動の法則によってのみ組織されたorganisé物体を構築することconstructionなど、幻想である。このような幻想については、言葉〔を弄ぶこと〕によって満足するひとびとにお任せするしかない。そして不変の真理として通用すべき仮説なるものがあるのならば、それは疑いもなく無限の胚germes infinisという仮説である。この無限の胚によって、[F:61]自然は〔様々な存在を〕一つひとつ派生させることなく発展させてゆき、そして少しずつ〔それらの数を〕増やしていったのである――この発展させ増やす仕組みmécanismeについては、私たちの知性でもそれなりに把握することができる。[C:101]この発展と増大という仕方で、自然は諸々の存在が住む大地を賑わうようにしたのである。創造主は、これらの存在を大地とともにすべて創造したのである。

[A:48]これらの観察は、私の探求がまず立つべき出発点を、十分に示してくれる。私は、天体が自らの軌道上を進む原因を見つけようと苦心することは決してしないであろう。また私は、植物や動物の形成を機械論や静水力学の原理に結びつけようともしないであろう。さらに、みずからの技術を色々と操作することによって、ひとりの人間を作ろうとした狂気の化学者(1)を真似ることもないであろう。

(1) 「ひとりの人間」とは、いわゆる化学よって作ることができると思われていた人工生命体である小人〔ホムンクルス〕Homunculeを指す。このような考えに対して、ルソーは否定的であった。『エミール』の以下の記述を参照せよ。「組み合わせとか偶然とかということは、いつも組み合わされる元素と同じ性質のものをつくりだすだけだろうということ、有機体や生命が原子の結びつきから生じることはあるまいということ、合成物をつくっている化学者は、ルツボのなかでその合成物になにか感じさせたり考えさせたりすることはあるまいということを考えてみるがいい」(Émile, O. C., t. IV, p. 579. 『エミール』、中巻、141頁)。さらにこの部分にはルソーによる原注が付されている。「証拠がなければ、人間の不条理がそんなところまで推し進められると信じられようか。アマトゥス・ルシタヌス〔アマート・ルシターノAmatus Lusitanus〕は、ジュリウス・カミルス〔ジュリオ・カミッロJulius Camillus〕が、新しいプロメテウスみたいに、錬金術の知識によってつくりだした一インチくらいの背の高さの小人をたしかに試験官のなかに見たと言っていた。パラケルススは、『物の本性について』のなかで、そういう小人をつくりだす方法を教え、小人族、牧神、半獣神そしてニンフなどは、化学によって生みだされたのだと主張している。じっさい、そういう事実の可能性を確定するには、有機物質は火の熱に耐え、その分子は反射炉のなかでも生きていられる、と主張することのほかに、まだしなければならないことが残っているというのは、私〔ルソー〕にはあまりよくわからないのだ」(Émile, O.C., t. IV, pp. 579-80. 『エミール』、中巻、316-7頁)。

 私たちは、昼と夜とが、雪の白さと草木の緑とが大地の表面を交互に覆うのを見る。私たちは大地にしみ込んだ水が、太陽の熱によって蒸発し、露となってふたたび落ちてくるのを見る。またその蒸発した水が雲へと凝縮し、恵みの雨として分解するのを私たちは見る。その雨が、しおれた植物を養いふたたびみずみずしくするために降るのを私たちは見る。樹液sucsと塩は植物の肥やし(2)として役立つことになっているのだが、両者が無数の様々な気孔をつうじて植物にしみ込むのを私たちは見る。あるときは、土こそが、あらゆる植物に必要な物質substanceをその根に提供する。そこから、そのままの精製されていない樹液は浄化され、この〔浄化の〕ために割り当てられた無数の小さな道管のなかで、きめがより細かいものになるのである。こうして樹液は、〔植物の〕最も繊細な部分を成長させるのに適したかたちになってゆく。またあるときは、水それ自体のうちに、植物の本体corpsはみずからの生命と肥やしを見出すのである。他の植物は、その葉と樹皮にある気孔だけを通じて、[C:102]必要な肥やしを空気から直接に摂取するのである。動物たちは、さらにすばらしいひとつの機構mécaniqueを通じて、つまり個体間の連結〔へその緒〕communication particulièreを経由して、まずはみずからの母親に備わる物質――すなわち空気、血液、体液といった自身の成長に必要なもの――を摂取する。そして生まれるや否や、動物たちは〔へその緒とは〕別の機能と別の機構によって、[F:62]直接呼吸し、自分自身に物質〔空気〕を供給する。次いで、自然は自分たちに適した肥やしを選択するよう動物たちに教え、害を与えるものを捨てるよう彼らに教えるのだ。自然は、欠乏désirを通して動物たちに欲求besoinを知らせる。〔栄養素の〕供給に関しても同様に、自然はうまくやった。その供給における思慮深さと同様に、自然は動物に消化器官をかくも思慮深く配置した。それゆえ、[A:49]動物たちを育成しかつその力を回復させるのに適した体液のみが、巧みな選別を通じて、それらの体液に割り当てられた物質〔器官〕substanceのうちを流れるのである。無用なものとなった残りの部分については、これは役に立たないものとして、お払い箱にされ、外へと捨てられる。〔この捨てられたものは、〕続いて、驚嘆すべき環境循環économieを経て、より力強い植物生成の活動végétations plus vigoureusesによって、大地を豊かにするのに役立てられる。またこの捨てられたものは、絶え間ない産出によって大地が失ってしまうものを回復するのにも役立つのである。植物は植物で、動物たちに恵み深い肥やしを供給するのである(3)。そして、この循環を通して自然は、絶え間なく何度も新しくなり、つねに力強くあり続け、この用意周到なprudente繰り返しのおかげでその若さの様相をつねに呈しているのである。〔いままで動植物個体間のやり取りを説明してきたが、個体の生成に関わる〕外的な要因を付け加えよう。すなわち、それは気温、必要な気候、暑さや寒さの度合い、乾湿の度合い、土壌の質、空気や水の質である。内的な要因とは、多様な界〔植物界、動物界〕différents règnesに適した肥やしを各界に供給するために必要なあらゆる手はずpréparationsのことである。すなわち、消化digestions、分解dissolutions、濾過filtrations、発酵fermentations、煆焼calcinations、そして化学が模倣しかしてこなかったあらゆる働きopérationsである。動植物の仕組みばかりを模倣してきたことによって、有機的な物体の発達のうちにある自然の仕掛けについて、化学は馬鹿げた考え(4)を〔ひとびとに〕与えてしまったのだ。鉱物界に関しては、自然はそこではまったく異なる仕方で発展する。〔鉱物の生成に関しては〕、胚germesや有機化〔組織化〕organisationが問題となっているのではない。そうではなくて、むしろ純粋な凝集結合が問題となっているのである。[C:103]私たちは〔このような統一体としての鉱物の〕生成を何らかの仕方で観察することができる。この〔生成の観察の〕ためには、何らかの物質substanceを形成するために、原質と混合物が互いにどのように結合するのかを見つけるだけで十分である。[F:63]そしてこのような発見をした後で初めて、物質の形成に関して、私たちは自然を模倣することができるようになる。こうして土から掘り出された自然物productions fossilesにまったくよく似た物体を私たちは人工的に作り出すことができるのである。

(2)nourritureとalimentの二語は「肥やし」で訳すこととする。この訳語をあてた意図としては、両語が、いわゆる食料はもちろんのことそれが分解されて吸収され易いかたちになった養分(栄養素)など様々なかたちの摂取物を指すからである。「界」については注(3)を参照。
(3)各界は閉じたものではない。ルソーは植物界と動物界の相互の環境循環économieを描くことで、自然を構成している各界が緊密に結びついている様を描写している。自然を動物界、植物界、鉱物界の三つの界règneに分ける見方は18世紀には成立していた。例えば、トレヴー辞典(1771年版)の「界règne」の項(http://www.archive.org/stream/dictionnaireuniv07fure#page/240/mode/2up)を参照せよ。
(4)ここで言われている「馬鹿げた考え」とは、上で述べられていた小人を作るといった「狂気の化学者」の行為がひとびとに与えてしまった自然のグロテスクなイメージのことである。

10 ところで、自然の実験室laboratoireを手本に人工的な実験室を設立するためには、ただ自然が採っている手段voiesを大まかに見るだけでは不十分である。そのためには、自然がみずからに役立てている器具instrumentsを完璧に知ることがとりわけ必要なのである。これらの器具は数多くある。太陽、風、雨、水、塩、土、様々な動きをし様々な形を持つ物体の諸部分それ自体がこのような器具である(5)。[A:50]ところで私たちは、これらを四つの一般的な部類classesにまとめることができる。すなわち、水、火、土、空気である。これら〔四つ〕の協働によって、私たちがすぐ後で見るように、〔この世界の〕始めよりとうに創設されていた法則に適合すべく、あらゆる自然的な物体が存在し、生み出され、みずからを維持し、変質するs’altèrentのである。私たちが器具と呼ぶところのこれら四つの物質は、古代のひとびとにとっての要素élèmentsであった。四つの物質や要素といった言葉から、〔この著作の〕第一編で語られた原質のことを私たちは容易に思い出すことができるだろう。というのも、まず空気と水とは、諸々の物体の構成のうちに含まれており、それはただ単に集まった部分parties agrégativesとしてだけでなく、化学的な分解résolutions chimiquesが証明してくれているように〔本質的な〕構成部分parties constitutivesとして含まれている、ということは確かであるからだ。土一般は、〔ベッヒャーの言う〕我らがガラスの土terre vitrifiableと同じ原質である(6)。火に関しては、それは活動状態にあるフロギストンphlogistique(7)以外の何ものでもない。さて残るところは、スイギンの土terre mercurielleである。この原質の本性についてすこしでも知っていなければ、このスイギンの土を四つの要素のうちのどれにも厳密に関係づけることはできない。以下では、空気、水、土、火のそれぞれについて個別に私たちが提示することになる考察のなかで、私たちはこれらを原質ないし要素と見なすよりも、むしろ自然の器具として見なすことを提案する。というのも、〔四つの〕物体を原質と見なす場合には単純なもののように見えるが、凝集と運動によって活動状態にあるそれらの物体は、器具と見なすと〔もはや要素や原質とは呼べない〕複雑なものになるからだ。〔では〕火から始めることにしよう。それは自然のあらゆる動因のなかでもっとも普遍的であり、技術はそれなしではけっしてありえない。というのも、火の協力を必要としない化学的な操作などというものはまずないからである。[C:104]どのようなものであれ他の何らかの器具の場合では、〔このようなことを〕これほど普遍的に語ることはできないのである。

(5)原質をその本質において考察するよりも、むしろ「器具」としてみなす立場、言い換えれば、原質の道具的側面を強調する立場はルソーのオリジナルなものではない。それは、ルソー以前の化学の先駆者であるブールハーフェ、ルエルの立場であった。(Bernadette Bensaude-Vincent, Matière à penser. Essais d’histoire et de philosophie de la chimie, Presses Universit. Paris 10, 2009, p. 45)
(6)ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャー(Johann Joachim Becher, 1635-1682)、ドイツ人化学者。ルソーは『化学教程』第一部、第一編にてベッヒャーの学説を検討している。ここでルソーが挙げているガラスの土、スイギンの土とはベッヒャーが主張する物質の原質のことである。ここで注意しなければならないのが、ベッヒャーのいう「ガラス」「スイギン」とは、現代の私たちが知るような硝子、水銀ではないということである。この現代との意味内容の差異を表現するために、カタカナ表記を用いて訳出した。同様の例には「エン」があり、これは塩と同じものではないが、ここではルソーは言及していない。
(7)フロギストンとは、酸素燃焼説以前のパラダイムを支配した燃焼理論において主要な要素をなす物質である。フロギストン(燃素)とは、物体が燃焼する際に物体から放出されるものとして考えられていた。すなわち、フロギストン説によれば、物質の燃焼現象はフロギストンが物体から放出される状態を意味する。フロギストン説は、ゲオルク・エルンスト・シュタール(Georg Ernst Stahl, 1659-1734)によって確立され、後にラヴォワジエによって酸素説が打ち立てられるまで、18世紀において大きなパラダイムを形成していた。

〔第一章終〕


部分から全体へ(二)

『化学教程』第二編第一章訳文解説

文責:飯田)

四、自然を理解する方法の展開:現象の観察から第一原因の仮定へ
 ルソーは次のように言っている。「自然的な事物の、原因causeとまではいかなくとも、少なくともその起源origineを探求しようとすることは、より有益であるかもしれない」と。ルソーは、事物の「原因」を明らかにすることは難しいと一歩後ろに下がったうえで、それでも「自然的な事物」の「起源」を探求することが「有益utile」であると主張している。この主張を通して、彼は自然探求の視点を、(1)真理の探究から(2)有用〔有益〕性utilitéの追求へとずらしているのである。このように視点をずらすことによって、著者は『化学教程』第二編で展開される「物質」(「原質」)の説明の方向性ないし枠組みをも設定しているのである。この枠組みとは、事物の《関係》を簡明かつ整合的に記述するという視点である(ルソーは、事物の《本質》を問題とする形而上学的視点をひとまずわきにおく)。より具体的には、自然を構成している「物質」が自然全体の中でどのように活動し役立っているかを記述するために、その「物質」をまずは「器具」と見なすという視点である。この視点の取捨が、「原因」と「起源」の区別に見出せる。
 ところで、「原因」ではなく「起源」の探求を優先させる理由は有用性にある。ではこの有用性の内実とはなんであろうか。私たちは、いま問題となっている文の直後に「理論の有用性」という表現が使われていることに気がつく。「起源」と「理論」は、ともに有用であるという点で結びつくのである。両者が有用であることの理由は、「精神の視野を広くし、これを創意に富む豊かなものにし」、実験と観察によって得られた無数の情報から、この精神が「多数の真理」すなわち「規則」そして「原理」を引き出すことを可能にする点にある。つまり「起源」とは、ある自然現象が起こるための真の「原因」ではなく(これを探求するためには形而上学的な視点も必要になる)、むしろ自然現象を簡明にかつ整合的に説明するための一種の仮説hypothèseなのである。この仮説としての「起源」を立てることによって、個々の事物間に成立していると考えられる「規則」を、さらには複数の「規則」をまとめ上げる「原理」を、ひとは実験と観察から引き出すことができるようになる。結局のところ「起源」と「原理」とは立てられる順序こそ違え、実質的には同じものである(両者が置換可能であることは、『百科全書』(t. XI, p. 648b)や『トレヴー辞典』(1752年版、t. VI, p. 397a)を見ると、ルソーの同時代においては一般的なものであったことが分かる)。
 このような「起源」に対して、「原因」という言葉によって示されるものは、ある結果の真の源であり、この「原因」があるからこそ、ひとの立てた仮説=「起源」は絶対的な妥当性を持つことができずつねに反証可能性にさらされているのである。
 また、ルソーは「原因」という言葉を使いつつ、ある種の第一原因prima causaをも視野に入れていると考えられる。このことは、第五段落において「叡智的な存在」という言葉が使われていることからも推測される。この「存在」は、「〔第一の〕能動的な原理」すなわち万物を創り出し、それにしかるべき規則と運動とを与える第一原因である。この第一原因(創造者あるいは「立法者」)を知るに至る過程は、まず(1)現象の観察を通じて「規則」や「原理」を把握することに始まり(第八段落にある「出発点」という語を参照)、次いで(2)両者の把握から飛躍し、「立法者」としての第一原因を仮定することへと至る、という二段階を踏むことである。興味深い点は、自然に秩序と運動とを与え維持しようと意志する「立法者」を仮定する方法の提示が、物体それ自体のうちに自己原因causa suiとしての運動を見出そうとする唯物論や広義の無神論の立場に揺さぶりをかけることを目的としているという点にある。以上のような、観察→仮定→批判というルソーの方法は、『化学教程』の八年後に執筆される『人間不平等起源論』(1755年)における「自然状態」の措定方法(事実、ルソーはこの方法を「条件的、仮定的〔方法〕」と呼んでいる)や、そのさらに数年後に執筆が開始される『社会契約論』(1762年)における「一般意志」の措定方法に通じるとも考えられる。

五、自然を成り立たせている器官=「器具」:化学が模倣すべきもの
 自然とは、第一原因の「誠実さ」のお蔭で狂いなく活動する精巧な機械である。ルソーは、本章においてこのように喩えられてきた自然を、気象の変化や動植物の活動といった事例を紹介しつつより具体的に説明する(第九段落以下)。この説明に際して、文章家ルソーは巧みに選び抜かれた単語を組み合わせることによって作り出される情景描写を通して、自然の持つ件の二つの特徴(循環運動と部分的な機能の適材適所)を説明する。例えば、循環運動は反復を表す接頭辞re-がつく動詞などを多用することよって描写され、適材適所という自然の特徴は、à leur、à son、propreといった固有性を表す小さな単語を何回も反復することによって読者の頭の中に刷り込まれてゆくのである。読者はこのような情景描写を読むあるいは見ることを通して、自然の二つの特徴を体験することになる。そして「化学が模倣す」べきものとは、この二つの特徴を成立させている、自然の様々な働き(例えば消化、分解、濾過など)、そしてその働きを受け持つ器官(動物の臓器や植物に観られる様々な気孔などのいわゆる器官はもとより、今日では比喩表現ともとらえられる太陽、水、塩なども『化学教程』では自然の器官として理解されている)である。
 以上のような議論の展開を経て、ルソーは自然の器官を個別独立した物質として理解するのではなく、むしろ自然というシステムを成立させているかけがえのない「器具instrument」として理解する視点を提示するのである(物質単体に目を向けその《本質》を問うのではなく、物質と自然全体との複雑な《関係》に目を向ける)。この「器具」には様々な種類があるが、ルソーは化学史の伝統も踏まえつつ、土、水、火、空気の四つの基本的な物質(「原質」)に還元し、本章に続く第二章からいよいよ「火」の器具としての役割に関する説明を始めるのである。

 本章は、ルソーが化学に関する独自の立場を読者に提案しproposerその立場の妥当性を説得する修辞的な文章である。事実、本章は、舞台の喩えという分かり易い説明を使って読者を議論に参加させる導入部exordeに始まり、化学に関わる思想を紹介する叙述narrationの部分、論証argumentに支えられたルソー本人の提案propos、そして論敵に対する反駁refutation、といった一連の修辞的文章の基本構造を持つテクストとも解釈できる。その文体は言うなれば美文調であり、文体を優先させるために説明の明確さを犠牲にしている側面がある。本訳文では、このテクストに見られるルソー独特の表現をいくらか犠牲にして、むしろ彼の説明を正確に読者に伝えるよう工夫した。


第四回訳文解説の間違いについて

 2012年7月9日にルソー『化学教程』第四回訳文解説(文責:飯田)が掲載されました。同解説の一部に関して読者の方から意見を頂きましたので、この場をお借りしてお答え致します。

 頂いた意見とは次のようなものです。同解説の二段落目に「『原因』ではなく『起源』の探求を優先させる理由は有用性にある」という文があります。この解説が、ルソーのテクスト(Il est, cependant, plus utile peut-être que l’on ne pense de chercher, sinon la cause, du moins l’origine des choses naturelles〔第三回掲載訳文第三段落参照〕)を根拠としているのであれば、これは誤読に基づく解説ではないか。ルソーのテクストはcauseとorigineのどちらが有用か、という点を問題としているのではないのではないか、という意見です。

 以上のような主旨の意見を頂きました。これにあわせて、上に引用しましたルソーの「原文の読み方」それ自体もまた問題となりました。まずは、原文参照の上、丁寧な意見を下さいました方々に御礼申し上げます。

 結論と致しましては、ご指摘の通り、問題となっている解説は原文の誤読に基づいています。以下、問題点を明らかにして詳細を書きます。
 まず、「原文の読み方」についてですが、このテクストは二つの部分に分けることができます。
(1)Il est plus utile que l’on ne penseという虚辞のneを含む比較文(訳は「〔一般に〕人びとが思っている以上に有用である」となります)。
(2)Il est utile de chercher, sinon la cause, du moins l’origine des choses naturellesという非人称文(訳は「自然的な事物の、原因とまではいかなくとも、少なくともその起源を探求することは有用である」となります)。
 したがって、第三回掲載の上記箇所の正確な訳は次の通りです。すなわち「しかしながら、自然的な事物の、原因とまではいかなくとも、少なくともその起源を探求することは、もしかしたら人びとが思っている以上に有用であるのかもしれない」となります。
 ルソーのこのテクストは、ご覧の通り、有用性の観点から「原因」と「起源」の優劣を直接に問題としているわけではありません。この点で、「『原因』ではなく『起源』の探求を優先させる理由は有用性にある」という、解説は間違っております。

 この間違いを踏まえた上で、訳文解説をいずれ書き直すことに致しますが、今回は、意見を頂きました方々をはじめとし、読者の方々にこの間違いをお伝えするにとどめさせて頂きます。
 第一回目に淵田が書きましたように、私たちは『化学教程』の訳文を読者の方々との「相互的なやり取り」に基づきながら作ってゆきたいと考えております。ですので、今後とも読者の方々から意見・批判を頂けましたら幸いです。
 なお、『化学教程』の諸版、頁数につきましては、同様に第一回掲載の淵田による解説を参照下さい。

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