ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト

第二回

『化学教程』

第一部
第二編  自然的な器具instrumentについて

第一章 自然の仕掛けmécanismeについて

[A:44, F:57, C:97]私たちは生まれるとともに目を開く。私たちは何事かを知る前から見るのである。そして〔見ることが〕長い習慣と化してこれに満足すると、感覚的な対象に関するささやかな検討すらも、私たちの好奇心をすぐにうんざりさせる。あらゆるひとびとが、自然の光景spectacleの素晴らしさを褒めそやすことを私は知っている。しかし、その素晴らしさを理解することができるひとはほとんどいないように思われる。我らが歌劇の舞台théâtres d’opéraでは、あるひとは声の美しさに、あるひとは舞台装置のそれに、またあるひとは女優のそれに感嘆する。つまりあるひとは音楽のみを聴き、他のひとは登場人物にのみ夢中になる。そして歯車や綱や滑車のことばかりを考えているひとびとは、もし〔舞台の〕仕掛けを一挙に把握しようと思うならば、なおも実に多くのことをしなければならない。要するに、どのひとも個別の対象に注目しているのである。〔だが〕集められ〔互いに〕比較された一つひとつの部分に注意しつつも、〔さらにその部分が形成している〕全体を判断するひとは稀にしかいない。〔このような仕方で全体を判断できないということは〕自然という舞台に関して言えば、大衆にではなく――というのも大衆は、知りもせずにただ感嘆するだけであるから――、むしろ哲学者たちにこそしばしばよく起こることなのである。この巨大な機械 machine immense(1)〔=舞台、自然〕の重さを背負える以上に背負い込み、圧しつぶされて、彼ら哲学者たちは、その視野に入ったちょっとしたぜんまいについて考察することに甘んじているのである。〔というのも小さな機械である〕蝶や蠅ごときですら、至極勤勉な自然学者〔=哲学者〕の叡智lumièreと研究とを辟易させてしまうのだから。[A:45, C:98]そもそも〔機械の〕各部分は〔機械全体との〕関係の中でのみその完全性を持ち、またその特殊な機能を持つ。ところでこのような部分は、それを一つひとつきちんと考えることに労を惜しまないひとびとの驚嘆と感嘆とを惹き起こしてしまう。[F:58]

(1)世界を巨大な機械に喩える例は、後の『エミール』においても見られる。そこで、ルソーは巨大な機械を理解することは人間の能力を超えていると考えていた。そこから、ルソーは不可知論の立場にあったと考えられる。「わたしたちはこの巨大な機械machine immenseを測定する尺度をもたない。そのいろいろな比率を計算することができない。その基本的な法則も最後的な原因も知らない。わたしたちはわたしたち自身を知らない。わたしたちの本性も行動の原理も知らない」(Émile, O.C., t.IV, p. 568. 『エミール』、中巻、今野一雄訳、岩波文庫、1963年、125頁)

宇宙の一般的な体系systèmeを全体としてつかみ取ろうとするひとびとは、彼ら自身、ほとんどの場合、体系をこしらえる者たちでしかなかった。彼らは、自然の法則を知ることよりも、むしろ自分たちが空想した法則に現象を当てはめようとするひとびとである。さらに、彼らの言うところの法則とは、意味のない空虚な言葉でしかなく、結果を結果それ自体で説明するものでしかない。古代の哲学者たちの著作を読みさえすれば、〔このような私の主張が〕まさにその通りであると〔読者は〕十分に納得することができるだろう。近代のひとびとは、物事をより明確にしようとした。そして彼らはすべてを機械学mécaniqueの法則に従属させただけでなく、これらの法則それ自体とそのすべての働きeffetsとを説明すると吹聴した。そこから何が生じたであろうか。いつもいつも矛盾、例外、新しい発見である。哲学者たちはこれらを見ないようにしている。しかしこれら〔の矛盾、例外、新しい発見〕は、哲学者たちにとって彼らの美しい空中楼閣〔=体系〕を崩すものなのである。そしてこの手の矛盾、例外、発見は彼らが予想だにしないときに訪れるのである。〔このような哲学者たちがいる一方で、観察に重きを置く〕実験自然学physique expérimentaleを考え出した学者たち(2)がいる。実験自然学はこの学者たちに誤謬を犯させる可能性を持っている。この学者たちが誤謬の危険性を予見することができたならば、彼らはこの自然学をこれほどまでに流行らせようとは思わなかったであろう。結局のところ〔先ほどの哲学者たちと同様に〕、隠れた性質qualités occultes、すなわち引力attractions、求心力forces centripètesなるものが舞い戻ってくるのである。そしてその学者たちは私たちに空しくも〔次のように〕語るのである。すなわち、「私は原因などまったく知らない、それを説明しようなどとは決して望まない」と、そして、「私は〔自分の使った〕方法を説明しようとも思わず、いかなる仮説も立てずに、〔いま扱っている〕対象が何であるかを言おうとしている」と。では、いくつかの物体が、あたかも互いに引きつけ合っているかのように運動していることが見つかった後で、このことからすべての物体は互いに引きつけ合うということが結論づけられるとき、結局のところひとは途方にくれるのである(3)。私たちは古代のひとびとよりもより優れた観察者であり、よりよい博物学者である。しかし、自然学という語の学校で習う意味に照らすならば、[A:46]その語を彼ら〔古代のひとびと〕よりも私たちはよく理解しているわけではないようだ。[C:99]「自然学トハ、諸々ノ原因ヲ通シテ見タ、自然的ナ物体ニ関スル真実ノ、確実ナ、ソシテ明晰ナ認識デアル Physica est cognitio vera, certa, et evidens corporum naturalium per causas」。

(2)「実験自然学を考え出した学者たち」とは、おそらくニュートンなどが念頭に置かれているのであろう。
(3)「では、いくつかの物体が」以降、主語が、「実験自然学を考え出した学者たち」から一般的なひとを指す語onにかわり、ついで一人称複数形nousへとかわる。この修辞的な主語の入れ替えを通じて、ルソーは読者に呼びかけ(頓呼法apostrophe)そして「実験自然学を考え出した学者たち」の問題とは、過去のことではなく、まさに読者自身にかかわる問題であることを意識させようとしている。

[F:59]しかしながら、自然的な事物の、原因causeとまではいかなくとも、少なくともその起源origineを探求しようとすることは、より有益であるかもしれない。記憶の中にごちゃごちゃと積み上げられた実験や観察の一群は、精神を照らすことなく、記憶の重荷となり、この記憶を圧倒する。それらの実験や観察を諸々の規則に還元し、理性の掌中に収まりうるいくつかの原理として再構成rappelerする必要がある。そしてここにこそ理論théorie(4)の有用性が生じるのである。理論は、〔個々の事例に固執しやすい〕判断を拡大させ、精神の視野を広くし、これを創意に富む豊かなものにする。そしてこのことゆえに、たとえそれ自体としては間違った体系であっても、それが多数の真理の発見をもたらすことも時にはあるのである。

(4)ルソーの使用している「理論théorie」とは、テオリアというギリシア語に由来する。テオリアとは、日本語では「観照」と訳され、概念史的には、ものの本質を論証なしで言い当てる心的な活動(=直観intuition)を指す場合と、世界を統べる法則を思弁的に把握する方法を指す場合とがある。後者の用法は、神との合一といった神秘主義的な文脈でも使われるが、学問的な方法としてのテオリアという意味でルソーは「理論」という言葉を使っている。ルソーの使うこの言葉が、上記のような意味の広がりを持っていることは、『化学教程』を読む上で重要である。

 これら〔観察のみおよび体系のみという〕極端の間にある中庸の道を賢くもたどることにしよう。〔観察によって〕自然の聖域へ忍び込み、そこで一般的な法則を探してみよう。また、つねに経験に導かれながら、力の及ぶ限り事物の本当の原理へと近づいてみよう。とはいえ、私たちの私的な臆見によって、盲目になってしまうことなどないようにしよう。〔法則が〕経験に対立しているように見えたとしても、頑なになってはならない。また、最も崇高な思弁と最も驚嘆すべき発見のいずれによっても、自然の真の理論なるものを明晰に認識することなど決してできはしないなどと、頑なになってはならない。


部分から全体へ(一)

『化学教程』第二編第一章訳文解説

(文責:飯田)

一、ルソーの自然観:循環と適材適所
 今回訳出する第二編第一章は、ルソーの化学観が彼のとは異なる二つの立場との対比から示される。彼の化学観は第二編の題名である「器具instruments」という言葉に端的に表れている。この「器具」については、第一章の最後の段落(連載第四回で公開)でようやく説明されるが、先取りするならば、ルソーの言う「自然の器具」とは、自然が次の二つの活動を成立させために必要とする道具的な機能(具体的には火、水、空気、土)のことである。自然の活動とは、第一に、自然内部の循環(例えばルソーは雨水の循環をあげている)であり、第二に、この循環を成立させる様々な要素の適材適所(ルソーは動植物の栄養摂取を例にあげている)である。この機能が「器具」と呼ばれるゆえんは、まさに自然がそれを道具のように用いるからであり、さらにこの「器具」は、ルソー本人が同章で語っているように、化学がその実践において模倣すべきものであるからである(例えば火の燃焼による物体の分解のように)。第二編第二章以降から、具体的な「器具」が一つひとつ説明されるので、第一章はその説明に至るための導入という位置づけになる。

二、「仕掛けmécanisme」とは何か
 第一章の題名でもあるmécanismeという表現は、その後あまり使われない。むしろ「機械mécanique」という言葉が使われるようになる。自然を機械的なものとして見るという視点は、ド・ラ・メトリやデカルトのそれを筆頭として十八世紀にはすでに伝統的になっているが、しかしひとまずは本章に見られる「機械」に関するルソーの用語法を見てみることにする。この語を理解するためのキーワードは二つある。それは循環と適材適所である。「機械」によって表象される自然のうちでは、食物連鎖において分かりやすく見られるように、あらゆる「存在」(本章第九段落目)が様々な形態をとることによって(水であれば蒸発し、雲となり、雨として大地を潤すといったように)、無駄なく互いに関係を築いている(循環)。そしてあたかも形がすべて異なる歯車によって作られている機械のように、自然を構成する部品=「存在」は相互に異なり、その一つひとつに求められている場所で固有の能力を発揮するのである(適材適所)。つまり、本章で示される自然とは、必要不可欠な部分があるべき場所でその能力を発揮する全体のことである。

三、自然を理解する方法:部分の観察から全体の把握へ
 これら部分と全体とをともに見ることがルソーの自然観を理解する上で重要であるが、さて、ルソーは両者を歌劇の「舞台théâtre」に喩えることから第一章を始める。この比喩では、「舞台」を構成している部分(女優、音楽等)へと好奇心が集中することと、それら部分の観察を通した「舞台」全体の把握とが対比される。そして、この部分と全体との対比、および部分の観察に始まり、部分が形成する全体を観察に基づいた上で把握するという方法は、本章の最後まで維持される議論の背骨となる。ルソーがみずからのものと区別し、批判する立場とは、両者のうちのどちらかに集中する立場である。本章の第一段落では、「舞台」の比喩を使って、部分に固執する傾向を批判する。すなわち「ひとびとは〔個別の対象に〕それが何であるかを知らずして感嘆する」のである。しかし、「〔機械の〕各部分は〔機械全体との〕関係の中でのみその完全性を持ち、またその特殊な機能を持つ」。つまり部分の本質――部分がそれぞれ「何であるか」ということ――は、あくまで全体との関係性の中で規定されるのである(部分と全体の関係についての議論は、後の『社会契約論』第二編第二章にも見出すことができるだろう)。
 このように第一段落は、全体の把握に関する話題で終わるが、この話題を契機として、第二段落は「体系」批判から始まる(段落中盤から観察に傾倒する方法に対する批判が再びなされる)。ルソーの体系中心主義に対する批判は、「体系をこしらえる者たちfaiseurs de systèmes」という言葉に象徴的に表れているだろう。彼らは「自分たちが空想した法則に現象を当てはめようとする」のである。しかし、「彼らの美しい空中楼閣〔=体系〕」は、化学者一人ひとりの観察がもたらす多くの新しい発見によって、様々な例外や矛盾を含むものとなってしまい、体系としての一般性を剥奪されてしまう。それゆえ、ルソーにとって観察に始まらない化学はその名に値しないものなのである。
 しかしながら、観察に並々ならない重要性を見ていたとしても、ルソーは近代の観察中心主義に対しても批判の矛先を向ける。ルソーによれば、この立場は、物体が落ちるとき、それが地上に引きつけられていることから「引力」なるものを編み出し、物体同士が引きつけ合っていることから「求心力」を想像するように、現象をその現象自体で説明する。これに対して本章で求められているのは、観察に基づいて現象のある種の原因(1)を説明するとことである(「原因」は、「法則」として説明される)。

(1)ルソーの用語では、原因よりもむしろ「起源」という語を用いるのが適当である。原因と「起源」の違いに関しては、淵田仁「ルソーの歴史認識における『起源』概念について : コンディヤックとビュフォンを通じて」、『一橋社会科学』、第二巻、2010年、7-19頁(PDF: http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/18505 )を参照。

(解説後半は第四回連載時に掲載予定)

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