ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト

第一回「ルソーは化学にどのような夢を見たか?」

淵田仁

知られざる著作

 2011年6月28日。今日はルソーの299回目の誕生日である。そして、来年は彼の生誕三百年にあたる。そのため、来年、ルソーの生地であるジュネーヴやフランスにて様々なイベント、シンポジウムが行われる。

 このような記念すべき日を前にして、私たちはルソーの知られざる著作を読み解きはじめたいと思う。その知られざる著作とは、ルソーが私たちのよく知っている「政治思想家ルソー」になる以前に書かれたものである。すなわち、パリでの論壇デビュー作品『学問芸術論』(1750年)が書かれる以前に書かれた作品であり、ルソーの思想が開花する後の『人間不平等起源論』(1755年)や『社会契約論』(1762年)以前に執筆された。

 その作品は『化学教程Institutions chimiques』と名付けられている。フランスのルソー研究によってこの作品は1747年頃から執筆されていたことが明らかとなっている。その頃、ルソーは大都会パリにやってきて、名を上げようとして必死であった。様々なサロン(哲学者、文筆家、知識人の交流の場)に出入りしつつ、ディドロ、コンディヤックといった若き思想家たちと日々討論していた。そのような知的雰囲気の中で、ルソーは化学という新しい学問へ関心を寄せていた。(ルソーの生涯については、詳しくは小林拓也氏のウェブサイト『ルソー研究への扉』を参照して欲しい。ルソー研究の現在を知る上でも非常に有効である。)

従来のルソー像とのズレ

 『化学教程』は、一言で言えば、ルソーによる「化学の教科書」である。これを意外だと思う人も多いであろう。というのも、ルソーに対する私たちのイメージは、学問や都会的生を批判し、素朴な未開人を愛し、人民主権を打ち立てた人であり、あるいは反対に、自らの子供を孤児院の前に置き去りにする冷酷な思想家であり、または性的倒錯者というイメージを私たちはルソーに対して抱いている。そして、一番有名なルソー像は、「自然に帰れ」というルソーであろう(実際に、このようなことをルソー自身は述べていないし、彼の思想においてもこの言葉は間違っている)。

 そのようないわゆる「非理系」的ルソー像を払拭するかのような作品がこの『化学教程』なのである。当時、化学は最先端の学問、技術であった。時代の最先端に位置するこの学問をルソーは大学の講義に出席したり、実際に実験をおこなったりして学んでいた。そして、その学びをルソーは1206枚の膨大な手稿にまとめた。だが、この手稿は出版されることはなかった。それが『化学教程』である。

 1905年に発見されるまで、この『化学教程』の存在は誰にも知られることはなかった。この時まで、このような膨大な手稿を書かせるほど、化学がルソーに多大な関心を抱かせていたということを誰が想像し得ただろうか。徹底的な学問批判、文明批判をしたルソーが「なぜ」化学に関心を寄せていたのか? これが『化学教程』を私たちが読むときのひとつの問いであろう。また、「化学」という技術と政治思想の関係にも注目したい。(『化学教程』についての詳細は今後の月曜社ウェブサイトでの連載解説や、『ミクロコスモス』の編著者でもある平井浩氏のウェブサイト『bibliotheca hermetica』に掲載されている『化学教程』紹介のページをご覧いただきたい。)

化学への情熱、科学への夢

 化学に情熱を注いでいたのはルソーだけではなかった。ディドロやドルバック、テュルゴーといった同時代の哲学者たちは皆、化学に飛びついた。化学は新しい世界観を彼らに与え、誰もがそれを熱狂的に自らの思想のうちに取り込もうとしていたのであった。

 ディドロと化学(ないし自然科学)の関係性については近年、大橋完太郎氏による浩瀚な研究書(『ディドロの唯物論——群れと変容の哲学』法政大学出版局、2011年)にて詳細に取り上げられ、「啓蒙思想と自然科学」という新しいテーマはその盛り上がりを見せつつある。だが、そのテーマは単なる「思想史」「科学史」の領域に収まるものではない。

 たとえば、東浩紀氏は『一般意思2.0』(講談社『本』、2009年12月〜2011年4月連載)においてルソーの『社会契約論』を現代のインターネット技術(twitterなどのSNSサイトやGOOGLEといった検索ポータルサイト)を通じて読みなおすことで、新しい民主主義のありうべき「一つの夢」を見ていた。

 東氏が「ネット技術」に一つの夢を見ていたように、ルソーも当時、物理学、機械学、化学といういわゆる「自然科学」に対してある「夢」を見ていたのかもしれない、と想像しうることを誰が否定できるだろうか。

 すなわち、「化学」という最先端のテクノロジー、最先端の学問を、現実社会に存在する諸問題を解決するうえでの〈鍵〉だとルソーが考えていたということは十分にあり得る。たとえば、化学より以前に存在していた物理学、力学(機械学)という学問はホッブズの政治思想に対して大きく寄与したということが後の研究によって明らかとなっている。また、コントやスペンサーによって提唱された社会有機体説は生物学的思考がその源泉となっている。つまり、自然科学と哲学の間には切っても切れない関係が存在するのである。

 とは言いつつも、哲学思想と自然科学の関係性、影響関係について検討するためには、まずもってテクストそのものを丹念に読み解くことから始めねばならない。つまり、私たちは何もよりもまずルソーの『化学教程』の精読をおこなわねばならない。そして、ルソーの思考が私たちの世界に何を与えてくれるのか、ということを読者の方々に夢見ていただくことが私たち訳者の夢である。そのためにも、『化学教程』を翻訳したいと考えている。

 近日公開予定の『化学教程』試訳の第一回目は、本書冒頭「物質の原質について」の抄訳となる。そこで、ルソーは自然学(physique=物理学)と化学の差異についてや、化学に関するこれまでの通俗的な考えについて記している。内容自体難解なところもあるが、今後解説や訳注などを加え、読者がルソーの思考を追えるようにできればと考えている。


『化学教程』を読む上で参考になる比較的入手しやすい書籍、ウェブサイト一覧

 以下のもの以外にも数多く文献はあるが、読者が比較的手にしやすく、廉価なもののみをここでは挙げる。

書籍

  • 島尾永康『物質理論の探求——ニュートンからドールトンまで』岩波新書、1976年。
  • アイザック・アシモフ『化学の歴史』竹内敬一・玉虫文一訳、ちくま学芸文庫、2010年。

ウェブサイト

『化学教程』目次、凡例および訳者略歴

目次
第一部
  第一編 物体の諸要素とそれらの構成について
    第一章 物質の原質について
    第二章 物体の混合と構成について
    第三章 諸物体のまとまりの原理とそれら物体の透明の原理について
    第四章 自然の様々な混合物と構成物について
  第二編 自然的な器具について
    第一章 自然の仕掛けについて
    第二章 火について
    第三章 空気ついて
    第四章 水について
    第五章 土について
  第三編 人工器具について
    序論
    第一章 炉と容器について
    第二章 その他の化学器具について
    第三章 溶媒について
    第四章 物質の関係が語られる沈殿剤について
第二部
  第四編 操作について
    序論
    第一章 分析と総合について
        蒸留について
        昇華について
        融解について
        煆焼について
        溶解について
    第二章 〔無題〕
        分解および構成について
        結晶化について
        還元について
    第三章 〔無題〕
        組み合わせについて
        発酵について
        ガラス化について

凡例
・この翻訳は、ジャン=ジャック・ルソー著『化学教程』Institutions chimiques (1747)の全訳である。
・原著にはいくつかの版本があるが、本訳では最初の活字化である『ルソー年報』に二回に分けて掲載されたモーリス・ゴティエの編集した版、Annales de la Société Jean-Jacques Rousseau, Texte établi par Maurice Gautier, tomes XII (1918-1919) et XIII (1920-1921), Genèveを底本とした。
・他に参照した版本は以下のとおりである。
 Institutions chimiques, Texte revu par Bruno Bernardi et Bernadette Bensaude Vincent, Paris, Fayard, 1999.
 Institutions chimiques, Édition critique par Christophe Van Staen, Paris, Honoré Champion, 2010.
 訳注やテクストの異同にあたっては、右の原著諸版をそれぞれ「アナール版」「ファイアール版」「シャンピオン版」と略記する。
・また本訳書では、ルソーによる『化学教程』の手稿も参照している。右の原著諸版と異同が見られた場合、適宜注にて示す。手稿は、ジュネーヴ公共図書館に収められている(手稿番号:BGE Ms.fr. 238)。手稿に散見される余白へのルソーによる書き込みや原注についても注に示す。
・読者が原著にあたれるよう、本訳書内では原著諸版の頁数をそれぞれ記す。アナール版は [A:頁数]、ファイアール版は[F:頁数]、シャンピオン版[C:頁数]として表記する。
・アナール版は、現在フランス国立図書館が運営する電子図書館「ガリカGallica」にて閲覧および入手可能である。http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb34462999q/date
・文中の角括弧〔 〕は訳者の補足である。
・各章それぞれ段落ごとにアラビア数字を振った。
・訳語の理解を助けるために、随時ルビを振ったり原語を付記したりした。底本としたアナール版は古い綴り方で表記されているが、これは現代の綴りに改めた。
・注にて、ルソーのその他の作品を引用する際には、プレイヤード版ルソー全集、Œuvres complètes, éditions publiées sous la direction de Bernard Gagnebin et Marcel Raymond, tomes. I-V, Paris, Gallimard «Bibliothèque de la Pléiade», 1959-1995を用いる。プレイヤード版を引く際は、「OC」と略記し、タイトル、巻数、頁数を記す。また、一般読者がルソーの著作に当たれるよう、できるだけ入手しやすい翻訳書を用いて注に記す。
・ルソーによる草稿書込について:書込の方法には二つある。(1)注記号(「*」など)を明記した書込で、これは《ルソー原注》と呼ぶことにする。(2)注記号を用いない、メモ書きであり、こちらは《ルソー余白書込》と呼ぶことにする。《ルソー余白書込》(注記号なし)に関しては、多くの場合その書き込みが本文のどこに掛かっているのか不明である。その場合、訳者の解釈を入れて、当該の書き込みが掛かっていると解釈しうる部分に脚注記号を挿入する。(第八回以降に適用)

訳者略歴

田仁(ふちだ・まさし)1984年、福井県生まれ。横浜市立大学卒。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程在籍。日本学術振興会特別研究員。専門は、思想史・哲学。論文に「社会契約無き共同体」(『.review001』、2010年)、「なぜルソーは「分析」を批判したのか?——ルソーの『化学教程』についての試論」(『フランス哲学・思想研究』第16号、日仏哲学会、2011年〔掲載予定〕)などがある。また、Project.review編集チームの一員でもある。

飯田賢穂(いいだ・よしほ)1984年、東京都生まれ。中央大学卒。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論分野)博士後期課程在籍。専門は、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』に関する研究を中心とした政治思想史。

ウェブ連載について
今後、月曜社ウェブサイト内で淵田、飯田共訳による『化学教程』を不定期公開していくが、私たちは読者と共にその作業を進めていきたいと考えている。つまり、『化学教程』というテクストめぐって訳者、読者の相互的なやり取りをつくっていきたい。一方的に訳するだけではなく、読者からの指摘などにも真摯に耳を傾けながら、『化学教程』翻訳プロジェクトを進めていきたい。御感想、御批正を月曜社編集部までお寄せいただければ幸いである。

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