森山大道のOn the Road
1964年、デビュー (4)
大竹昭子
—横須賀を撮ったきっかけは何ですか。
「それはなんと言っても東松さんの「占領」が大きいです。あのシリーズの横須賀にすごく惹かれてましたから。逗子に住んでいたから横須賀は隣町で、あっ、あそこを撮ればいいんだっと思って」
東松照明は東京に出てきた森山が最初に会った写真家である。岩宮武二が紹介状を書いてくれ、それを握りしめて上京したのだったが、VIVOは解散直前で果たせなかったことは前に書いたとおりである。その後、VIVO残党5人と細江とでシェアした事務所で働きだすが、細江は忙しくて留守がちでほかのメンバーもあまり来ず、東松と話す機会がいちばん多かった。ついには事務所に泊まり込んで東松の抽斗を開け、一晩かけてコンタクト・プリントを盗み見てしまう。当時の森山にとって東松の存在は絶大だった。
—「ヨコスカ」を撮ると決めたとき、「東松否定!」にまで気持ちがエスカレートしたと『犬の記憶』にありますが、東松さんの何を否定したかったんですか。
「いや、東松さんの横須賀はいま見てもいいなと思うショットがたくさんあるんです。それはもうたしかなんです。でも東松さんが横須賀を撮ったのは50年代終りで、時間的に隔たりがあるし、ぼくなりの横須賀が撮れるんじゃないか、という思い込みと、思い上がりですよね」
—東松さんと似てしまう懸念は抱かなかったですか。
「それはなかったな。最初に『フォトアート』で「アフタヌーン」っていうタイトルで横須賀を撮りに行ってるんです。そのときはやや東松さん的な占領の象徴物を撮っているけど。それと「ヨコスカ」に出てくる黒人兵が車にのってこっちを向いているカットね。あれは『カメラ毎日』の山岸さんに東松さん的だと言われたし、自分でもそう思うけど、撮りつづけるうちに自分の興味に沿ってカメラを向けるようになりましたね。 ぼくは路上のこちょこちょしたものに惹かれるんですよ。オンリーハウス(米兵が日本人女性を囲っている家)の洗濯物とか、壁とか。占領へのマニュフェストではないし、東松さんほど兵隊も撮ってない。だから横須賀はぼくにとってはテーマではなかったんだな。町に出て行くためのステップボードだったんです。花売りのおばさんやキャバレーの地回りのお兄さんに怒鳴られたり追いかけられたりしてときにはめげたけど、若かったし、撮りたかったから、ノーファインダーで撮ったり、横向いて撮ったり、ときには喫茶店に入って気分を入れ替えたりしてやってましたね」
—横須賀にはどういうルートで行ってましたか。
「家が逗子だったから横須賀線で横須賀駅に出て、汐入のほうに歩いて行くという感じでしたね。当時は駅前に米兵相手のバーや商店があって、崖を登って行くとオンリーハウスが残っていて、まずそっちを撮りにいって、それからドブ板通りほうにむかうこともありました。駅前の海沿いのエリアがいまのように整地されてなくて、妙な広さの道だけが通っていてね。今村昌平の『豚と軍艦』の横須賀駅前を俯瞰するラストシーンにそのあたりが写ってますけど。あの映画は好きで公開時に見てるから、横須賀に行ったのは、映画の影響も多少はあったかもしれないな」
—進駐軍についてはどんな記憶はありますか。
「終戦の翌年に千葉から浦和に引っ越したんですけど、そこで遭ってます。家のそばに軍需物資を作っていたゴムの廃工場があって、そこが遊び場だったんですけど、そこの前に六間道路と呼んでた大きな産業道路があって、進駐軍のトラックやジープがビュンビュン通るんです。ときどき車からチューインガムやチョコレートを投げてくれるので、ワーッと寄っていくという感じでしたね」
—その後、福井県の丸岡で進駐軍の家に飾ってあるクリスマスツリーを見た話が『犬の記憶』の中に出てきます。
「父は生命保険会社に勤めていたんだけど、戦後の混乱期でまだ会社の社宅がなくて、炭屋の2階に間借りしてたんですよ。おなかが空いて大家さんのおにぎりを食べて、親父にものすごく怒られたのを覚えてます。笑っているかと思ったら、泣いてるんだよね。情けないって。でも盗ったつもりはなくて、同じ家の中なので食べてもいいように思ったんですね。子供だったから。 そんなふうに他人の家に家族で暮らしているのは結構大変で、親が大家さんに気を遣っているのが子供心にもわかって、なんとなく家にいづらくてね、それで外に出掛ける口実として、毎日親父を駅に迎えに行くようになったんです。あの道この道と、そのつど通る道を変えて10分くらいの道のりを歩いて行くんですけど、その途中に進駐軍の家があったんです。丸岡には基地がなかったから、進駐軍の家と言ったって2、3軒あった程度だと思うけど、物珍しくて窓に手をかけて毎日のぞいました。そこではじめてクリスマスツリーというものを見たんです。こんなきれいなものがこの世にあるのかと思いましたね」
—基地の町としてはどこが最初ですか。
「大阪の豊中に越してからですね。丸岡のあと、父が大阪本社に転勤になり、ぼくたちは母といっしょに父の故郷の島根県の宅野に移るんです。まだ終戦のごたごたが続いていて食糧も充分でなかったし、大阪より田舎のほうが暮らしやすいということだったと思うけど、そこで2年ほど過ごしてから、豊中の社宅で家族一緒の暮らしがはじまるんです。 小学校が伊丹空港の近くで、そのそばに米兵のたむろする町ができてました。終戦後、伊丹空港は米軍に接収されてましたから。ペンキをぬりたくった絵看板や横文字のパネルを貼り付けた映画のセットのような町で、そこだけほかと切り離されてるんです。いまの阪急宝塚線の蛍池駅周辺です。 その町が、1950年に朝鮮戦争がはじまると一気に活気づいたんですね。学校の帰りによく見に行きました。小学6年のころです。最初は友だちと一緒だったけど、彼は興味なかったみたいですぐに行かなくなって、ぼくひとりでうろついてたな。教室の窓からは、窓ガラスをビリビリさせてジェット戦闘機が飛び立つのが見えました」
大竹昭子(おおたけ・あきこ)
ノンフィクション、エッセイ、小説、写真評論など、ジャンルを横断して執筆。トークと朗読の会<カタリココ>を各地で開催している。 著書に『この写真がすごい2008』(朝日出版社、2008)、『きみのいる生活』(文藝春秋、2006)、『眼の狩人』(ちくま文庫、2004)、短編集『随時見学可』(みすず書房、2009)、『あの画家に会う 個人美術館』(新潮社とんぼの本, 2009)、長編小説『ソキョートーキョー』(ポプラ社、2010)など他多数。
web: 紀伊國屋書店「書評空間」の同人。草森紳一記念館「白玉楼中の人」で「目玉の人」を不定期連載。