文化=政治
毛利嘉孝

品切

品切重版未定

世界で起こっている、〈いまどき〉の政治運動を考える

  • 刊行年月: 2003.12
  • 46判並製カバー装222頁
  • 本体価格1800円
  • 19cm
  • ISBN:4-901477-08-0

こんにち、政治への民衆参加の風景は世界規模で変容しつつある。
反グローバリズム運動や反戦運動に見られる、 ストリート占拠、カーニバル、パフォーマンス、サウンドデモなどの八〇年代以降の「新しい社会運動」の波を、「新しい文化=政治運動」としてとらえ直し、 その可能性を実践的視点から考察する。ACT UPやリクレイム・ザ・ストリート、サパティスタやだめ連などは、旧世代の活動とどう違うのか。
気鋭の社会学者による待望の第一論文集。全編書き下ろし。

目次

はじめに
第一章 「文化と政治運動の転回点—-シアトルの闘争」 ……一九九九年、WTOシアトル会議/新たに政治に参加しはじめた若者たち/ 実際にシアトルでは何が起こったのか?/転回点としてのシアトル/シアトルの闘争をどのように理解すればいいのか?/ 「新しい社会運動」から「新しい文化=政治運動」へ
第二章 「カーニバルの政治学」 ……文化=政治運動のさまざまな系譜/ ノッティングヒル・カーニバル/カーニバルの政治学/オルタナティヴな公共圏/資本主義的な生産関係に対する批判としてのDJ/ 暴動の政治学
第三章 「ACT UP!—-セクシュアリティと身体の政治学」 ……ACT UP、その成立/沈黙=死: Silence = Death / ACT UPとグローバリゼーション/もうひとつのACT UP/セックス・クラブをめぐる闘争/哀悼と戦闘と
第四章 「ストリートを取り戻せ」 ……RTSにはじまった新しい運動のスタイル/都市のストリート・パーティへ/ 自動車とストリート/自転車というオルタナティヴ/グローバル化するストリート・パーティ
第五章 「情報空間の抗争—-サパティスタ・ハックティヴィズム・サイバースペースの文化実践」 ……インターネットの活用/ サパティスタ民衆蜂起とインターネット/ハックティヴィズムの発展と電子市民的不服従/MVDA:ヴァーチャル直接行動/ アート、テクノロジーそして政治
第六章 「いまどきの日本の文化=政治運動」 ……反戦運動二〇〇三:「殺すな」とサウンドシステム/ 空間的実践としての文化=政治運動/空間的実践の系譜:だめ連と新宿ダンボールハウス・アート/ 地方都市の空間実践:ギャラリーSOAPとパラサイト・プロジェクト/フリーター世代とポストフォーディズム体制
第七章 「新しい文化=政治運動」 ……システムの適応性の限界における崩壊/DiYとアフィニティ・グループ/ 「非暴力・直接行動」:NVDA
あとがき

紹介記事

  • 無記名氏書評 (「時事通信」2004 年1月24日配信)
  • 「束」氏記名書評(「ふぇみん」2004年1月25日付・第2715号)
  • 福嶋聡氏記名記事(「SPA!」2004年2月3日号)
  • 野田努氏記名記事(「REMIX」2004年2月)
  • 無記名氏書評(「朝日新聞」2004年1月11日朝刊書評欄)
  • 鈴木慎一郎氏記名記事(「図書新聞」2004年2月28日号)
  • 小倉利丸氏記名記事(「週刊読書人」2004年3月5日号)
  • 無記名氏書評(「STUDIO VOICE」2004年3月号)
  • 斉木小太郎氏記名記事(「MUSIC MAGAZINE」2004年3月号)
  • ドミニク・チェン氏記名記事(「美術手帖」2004年4月号)
  • 上野俊哉氏記名記事(「MUSIC MAGAZINE」2004年4月号)
  • 東琢磨氏書評(「インパクション」140号「「たったひとりの身体的な嫌悪感」から 」)
  • 陣野俊史氏短評(「週刊読書人」2004年7月30日号「特集=印象に残った本 二〇〇四年上半期の収穫から」)
  • 著者による自著紹介(「美術手帖」2005年1月号「アートを多角的にとらえるためのブックガイド 社会学・文化研究とアートがわかる」)

序文「はじめに」

空間が叛乱をおこしている。
ロンドンで、ニューヨークで、ベルリンで、シアトルで、ジェノバで、東京で、そして世界中のいたるところで叛乱は起こっている。
叛乱の形式はさまざまである。ある場合には、具体的な要求を伴った政治的デモや集会として組織される。またある場合には、単なるお祭り騒ぎ、カーニバルとして勃発する。こうしたデモやカーニバルはしばしばそれを取り締まる側との深刻な対立を生み、暴動へといたることもある。
面白いのは、こうした政治的なデモや集会、カーニバル、暴動といった事象が、その動機や背景の多様さにもかかわらず、九〇年代以降どれも似たようなスタイルをもって現れていることである。派手なコスチューム、巨大なぬいぐるみ、爆音で鳴り響くサウンドシステム、ドラムや楽器などの鳴りもの、美しくデザインされたプラカードやバナー、パフォーマンス、ダンス。こうした要素は、旧来のデモや集会などの「政治」の風景を大きく変えつつある。
これまでしばしば過剰に生真面目だった政治という領域が、ここにきて急速に悦楽的な領域へと変容しつつあるのだ。空間の叛乱は広がっている。時にはひとつのデモに一〇万人以上もの人びとが集まることもある。しかし、数が問題ではない。今広がっている叛乱は、ひとりひとりがその自律した、ばらばらの存在のまま自然発生的に集まっているのだから。この中心のなさ、組織のなさ、ヒエラルキーのなさは、この新しい運動の特徴である。
こうした運動は、一見とても享楽的で、楽天的で、しばしば自己中心的にさえみえるかもしれない。しかし少し目を凝らしてみると、こうした特徴が、どうしようもなく袋小路に追い込まれている現状に対して取られた、おそらく唯一の可能な戦術であることがみえてくる。
本書が明らかにしたいのは、二一世紀の変わり目に突然登場したように受け取られている空間の叛乱が、この一〇年もの間にゆっくりと発展してきた過程である。本書が取上げた、シアトルにおけるグローバリズム運動、ACT UP、リクレイム・ザ・ストリートやクリティカル・マスなどの反道路運動、日本の反戦運動は、空間の叛乱の端的な例である。そして、この運動はヴァーチャルな空間にまで広がっている。
ここで私が「新しい文化= 政治運動」と呼ぶ運動は、この多様な新しい運動のあり方の総称である。それは、伝統的な政治運動の形式である階級闘争と、七〇年代以降先進国で見られた環境問題、反戦運動、フェミニズムなどの「新しい社会運動」などの影響の下にありつつも、これまでになかったまったく新しい特徴を示している。そして、このことが世界中の多くの若者たちをひきつけつつある。
いったい今何が起こりつつあるのだろうか? 本書はこの問いに答えようとしたものである。
しかし、「今何が起こりつつあるのか」を検証することだけが重要なのではない。より重要なのは、「今何をすることができるのか」ということである。だが、このことは一足飛びに伝統的な政治のカテゴリーの実践である選挙投票や、デモや集会に参加したりすることを呼びかけているわけではない。「何をすることができるのか」という問いかけが暗黙のうちに期待してきた規範がまず疑われなければならないのだ。本書が、伝統的な政治だけではなく、しばしば伝統的な政治からは排斥されてきた文化的な実践も扱っているのは、その答えを限りなく多様化するためである。
「新しい文化= 政治運動」のほとんどは、空間をめぐる運動である。このことが「新しい文化=政治運動」に独特の切迫した「現在」という時間の感覚を与えている。重要なのは、まさに私たちが身体とともに投げ込まれている「現在」をどのように変容するのか、私たち自身で考えることなのだ。それは、もうひとつの、ありえたかもしれない「現在」をラディカルに想像することでもある。

毛利嘉孝(もうり・よしたか)
1963 年生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究院助教授。専門は社会学、文化研究。
著書に『カルチュラル・スタディーズ入門』(上野俊哉との共著、ちくま新書、 2000 年)やその続編 『実践カルチュラル・スタディーズ』(上野俊哉との共著、ちくま新書、 2002 年)、 『テレビはどう見られてきたのか』(小林直毅との共編、せりか書房、 2003 年)など。
訳書に『キッチュ・シンクロニシティ』(ピーター・ワード著、アスペクト、 1998 年)、 『カルチュラル・スタディーズ入門』(溝上由紀ほかとの共訳、グレアム・ターナー著、作品社、 1999 年)、 『ルーツ』(有元健ほかとの共訳、ジェイムズ・クリフォード著、月曜社、 2002 年)、 『 INTRODUCING カルチュラル・スタディーズ』(小野俊彦との共訳、ジャウディン・サルダーほか著、作品社、 2002 年) などがある。

上部へスクロール
Copy link