「書き手としてのドアノー」堀江敏幸

郡山市立美術館 2014年6月1日


※2014年6月1日に郡山市立美術館でおこなわれた「ロベール・ドアノー写真展」(会期終了)での講演会の採録です

 ぼくは1989年、25歳のときフランスに留学したのですが、いろいろないきさつがあって、最初に腰を落ち着けたのは、パリの南にあるモンルージュという街にある学生寮でした。モンルージュは、あまり汚れのない、ちょっと澄ました感じの、ゆるやかな時間が流れている静かな郊外です。じつは、このモンルージュに、ロベール・ドアノーが住んでいたんですね。著名な写真家が近くに居を構えていることは知っていました。当時まだ彼は生きていましたから、散歩の途中で、気づかないうちにすれちがっていたかもしれません。

 学生時代の研究対象は、主に1920年代の文学で、そのなかにブレーズ・サンドラールという、早くから翻訳されているのに、あまり親しまれているとは言い難い作家・詩人が含まれていました。サンドラールは、第一次世界大戦で右手を失い、以後、左手で執筆を始めます。そして文字通りの片腕として彼は読みづらい 原稿の浄書に、タイプライターを使うようになります。

 第二次世界大戦中は、南仏に移り住んで沈黙していたのですが、1945年に『雷に打たれた男』という新作を発表します。その本の宣伝のために、作家のポートレイトを撮ってきてくれと頼まれたのが、まだ30代のロベール・ドアノーでした。

[『不完全なレンズで』(96頁)の、サンドラールがタイプライターをまえにコーヒーミルをかかえた写真提示]

  そのときの組写真の1枚に、コーヒーミルをかかえたサンドラールが写っています。生活の、仕事のなかの道具がよい味を出していますね。タイプライターはアメリカの、レミントン社のモデルです。ぼくはこのポータブルタイプライターの写真にすっかり惚れてしまって、のちにパリの古物市で見つけて買うことになりました。つまり、ぼくは、サンドラールを通じてドアノーに出会ったんですね。

  さて、サンドラールのところに出かけて行ったドアノーは、年の離れたこの作家のひととなりにすっかり魅了されます。若い写真家がジャンティイというパリの郊外の生まれだと知るや、サンドラールの方も親近感を抱くようになりました。サンドラールもまた、第一次世界大戦後、友だちとよくパリ郊外をうろついていたのです。だから、話がよくあった。ドアノーが、いままさに、そのパリ郊外の写真を撮影していると話すと、サンドラールが興味を示して、見せろという。すると、「これはすばらしい、本にしよう」となったわけです。出版社につてはある、写真をどんどん送りなさい、自分が序文を書くからと言って、本当にすばらしい文章を書き上げ、出版までの面倒を見てくれたのです。サンドラールとの出会いがなければ、『パリ郊外』という写真集が生まれることはなかったでしょ う。

[『パリ郊外』からの写真を映写]

  結局、ぼくのパリ留学は、ただ街を歩き回るだけで終わってしまいました。研究からも徐々に離れて、現代フランス文学を漫然と読むような日々を過ごして帰国したんです。すると、まさにその漫然とした人間を探していた語学雑誌の編集者から、なにか書かないかという誘いを受けました。では、なにを書くか。

  手持ちの材料は、その頃読んでいた現代小説しかありません。興味深いことに、それらの舞台は、パリではなく、少し外にある郊外地区や地方都市を扱ったものが多かった。おそらく、フランス語圏の作家たちをフランス文学の遺産として取り込もうとする動きとも連動していたのでしょう。フランス文学の枠が外へ大きく広がりつつあるなかで注目されていたのは、移民たちの動きです。大型高層団地で生まれ育った、フランス語を母語とする移民三世の世代が受けている差別や、それゆえの荒廃ぶりをテーマにした小説も少なくありませんでした。ところが、そういうパリの外側の様子、暗部とも言える郊外地区のことは、日本でほとんど紹介されていませんでした。そこで、現代小説を紹介しながら、パリの外側のことを書きたいと編集者に話したわけです。驚いたことにそれが企画として通って、「ふらんす」という雑誌で連載がはじまりました。

  その第1回の書き出しが、先のタイプライターの話だったんです。タイプライターからサンドラールに移って、ドアノーに行く。ドアノーとサンドラールが出会っていなければ、そして彼らの共著を手にしなければ、ぼくは物書きになっていなかったでしょう。不思議な縁です。ロベール・ドアノーは、いわば恩人なのです。

  いまでもよく覚えていますが、最初の締め切りが1994年2月で、翌月に新学期にあわせた4月号が出ました。その直後に、ドアノーの訃報が入ってきたんです。1カ月ずれていたら、たぶんこの連載を追悼から始めていたでしょう。そうなれば、全体の色合いはずいぶん変わってしまったはずです。結局、ドアノーの死は、最終回で触れることにしました。「ドアノーが亡くなったことを知ってるか」と、知人に宛てた手紙のなかで言及する間接的なやりかたでしたが、その手 紙を、パリ郊外の団地の一室で書いているという設定にして、文章じたいがオマージュにもなるようにしたんですね。

  ドアノーはすでに述べたジャンティイという郊外の生まれですが、じつは現代フランス小説で扱われているパリの外の様子も撮影していました。注目すべきは、1980年代に行われた DATAR(国土整備地方振興庁)主導の、フランス全土の風景写真を撮影するプロジェクトへの参加です。これは、アメリカで1930年代に行われたFSA(農業安定局)による試みを彷彿させるものです。お役所に登用された二十数名の写真家のほとんどは、1940年代、50年代生まれの、つまり戦後生まれの写真家たち。ひとりドアノーだけが、別格の長老として協力しているんです。

  その成果は、分厚い写真集にまとめられています。ドアノーが撮影したのは、サンドラールとの共著から40年後の、現代のパリ郊外。しかもカラー・フィルムです。じつに印象的な世界が並んでいます。人はほとんど写っていません。がらんとした団地のなかの空き地や、ゴミ収集車の駐車場など、殺風景な空間が主人公です。それが鮮やかな色で表現されている。カラーなのに、モノクロの香りがする。いや、カラーであることはまちがいないのに、その手つきや感情の込め方が、かつての彼の世界とまったくかわっていない。

  じつは、ドアノーはかなり早い時期からカラー写真を試みていました。ルノーに勤めていた頃、カラーフィルムを使って広告写真の可能性をさぐり、自分の仕事にも生かそうと、研究を重ねていたんです。アグファとコダックがカラーフィルムの技術開発をやっていて、ドアノーはそのどちらかをなんとかものにしようと考えていた。当時、カラーフィルムは高価だった。個人で買うのはとても無理でした。しかし、大企業の広告の形を借りれば、それができたんですね。ただし、カラーフィルムのネガを、褪色、劣化させずにどれだけ保管できるかが、まだわかっていなかった。だから、彼は、モノクロへの愛だけではなく、技術的な問題からカラーを選ばなかった、とも言えるのです。

  これは死後にまとめられたものですが、ドアノーにもカラーの写真集があります。1960年、アメリカの雑誌に招かれて、砂漠地帯の人工的なオアシス、パームスプリングスに滞在して撮影した一連の組写真が、2010年に、はじめて本の形になったんです。この写真集を開くと、ドアノーがいかにカラーフィルムでの撮影を自分のものにしていたか、よくわかります。先日、モンルージュにあるアトリエ・ドアノーをはじめて訪問して、アーカイヴを管理されている娘さん[長女]のフランシーヌさんに、その写真集の表紙に使われている、砂漠の一本道の写真のネガを見せていただきました。ドアノーの判断の正しさが、納得できました。オリジナルネガは、半分以上褪色していたからです。この写真集は、デジタル補修の専門家の手で綿密な調整を経て成立したものだったんです。

 しかし、80年代には、カラーフィルムについて不安はなくなっていました。だから、あらためてパリ郊外をカラーで撮影してみたわけです。

[『不完全なレンズで』に収録されているカラー写真を示して]

 ファインダーを覗きながら、彼はなにを感じていたのでしょう。少年時代に愛した郊外が完全に消えて、すっかり変わってしまったことを嘆いているのか、それでもなお変わらないものがあることを再認識したのか。80年代になって爆発的な人気を得たドアノーは、古き良き時代のパリ、いまはもうなくなってしまったパリ、記憶のなかにしかない郊外地区の映像をいまに伝える人としてもてはやされました。しかし彼が経歴の初期の頃から見据えていた原風景の核が、ここに出そろっているような気がします。

  かつて『パリ郊外』におさめれていた自転車競技の写真には、不吉な影がありました。ドアノーは人々の笑顔を撮影しながら、同時に、その笑顔の裏にあるものも見ていたのです。ただの日常というだけではなくて、その奥にある黒々としたコールタールのようなもの、心のうちの瀝青にもちゃんと目を届かせていた。

  このことは、彼の自伝的な散文、『不完全なレンズで』にあたると、少しわかってきます。ドアノーの文章は、かなり風変わりなものです。前後の脈絡がなく、文章じたいも尻切れとんぼになっている箇所がある。かと思うと、きわめて私的な、そして詩的な表現と、地口らしきものがつづく。なんの注釈もなしに固有名詞がつぎつぎにでてくる。はじめて読んだときは、かなり混乱しました。世間に流布している、いわば物語性のあるわかりやすい写真のイメージとは、明らかにちがう位相から言葉が出ているからです。

  原書のタイトルは、A L’imparfait de L’objectif。これは、ジャック・プレヴェールというドアノーの親しかった詩人が、彼にむけて書いた言葉の援用です。imparfaitは「不完全」ですね。同時に、フランス語の文法用語で、「半過去形」の意味になります。objectifには「目的」と「レンズ」が掛けてある。響きの美しい、魅的なタイトルです。そして訳しようがないタイトルでもある。ぼくは仮に「不完全なレンズで」としましたが、それは、対象を見ているこちらの時間と見られている相手との関係性を、全体として把握する時間の不完全さ、という意味を汲んでの、苦渋の選択でした。

  翻訳にあたっては、意味を優先するためにわかりやすく分節化し、あいだの言葉を捕捉していって、日本語のゆがみを矯正するという方法を選びませんでした。ドアノーのフランス語の持って回った言いまわしは、あえてそう書いているとしか思えなかったからです。写真の明快さに比して、なぜこれほどわかりにくい言葉をならべるのか。そのずれが、ドアノーの秘密でもある気がしたのです。

 何度読んでもしっくりこない箇所がいくつかありました。いろいろ調べていくと、この小さな本の成り立ちがわかってきたんです。これは、書き下ろしでも語り下ろしでもなかった。とある編集者との手紙のやりとりを、独自に編集しなおしたものだったのです。

  原書の編集者は、ジャン=リュック・メルシエという、ピエール・モリニエの浩瀚な伝記を書いた、シュルレアリスム研究者として知られる人で、彼は生前のドアノーともとても親しかった。このメルシエさんが書いた回想録を読んでいたら、ドアノーについて書いた文章があったんです。ドアノーと知り合ってとても感動した、まるで自分の父親に会ったみたいな気がした、文学的な父親は別にもうひとりいるけれども、どちらか選べと言われたら、それはまちがいなくドアノーだ、と書いているんです。編集者であることを利用して、彼はドアノーに、自伝をお書きになりませんかと、誘いつづけました。ドアノーの文章力にも、彼は気づいていたのでしょう。ところが、何度頼んでも相手はうんと言わない。そんな器ではないの一点張りなんです。

  そこで、こんな提案をしてみた。週1回、あなたに手紙でひとつ質問を送ります。それに答えてください。そういうことならという話になり、一問一答を、なんと5年間やりとりした。そうやって溜まった回答を、編集者であるメルシエさんが分類して切り貼りしたんです。あいだが飛んで、つながりの悪いところが出てくるのはしかたのないことでしょう。ぼくはしかたなく、編集者であるメルシエさんに手紙を書いて、不明部分の意味を訊ねてみました。しかし、「これとこれはわかるけど、ほかはわたしにもわからない」という話だったんです。事実関係を当たって埋められる穴は埋めましたが、そうでないところは、こねくりまわした感じをできるだけ生かしました。

  ドアノーは、写真術を詩人から学んだ、と言っています。ジャック・プレヴェールばりのリズム、かけ言葉、遊びで使う言葉がどんどん入ってくる。それでいて、じつに几帳面なところがある。『不完全なレンズで』に、古い取材ノートの抜粋からできている章があるんです。単語がバラバラに並べられているだけで、なんの脈絡もありません。たとえば、「子ども時代のモーツァルト、一メートル六十五センチの中国の壺、ベルンの熊、二メートル三十センチ。灯台守。ベートーヴェン、エロイーズにアベラール、スペインの館。ワクチン、アエロフロートにル・ブルジェ飛行場。セントラルホテル二〇八号室。」

  翻訳者としてはそのまま訳すしかないのですけども、どうしてワクチンがでてくるのか(笑)。じつは、ドアノーのアトリエに、ひじょうに綿密な取材ノートが遺されていまして、この一節が意味不明だと、ドアノーの娘さんのフランシーヌさんに言いましたら、それはね、ちゃんとノートに書いてあるのよ、といってノートの原版を見せてくださった。実際はこのとおりではなくて、いろんな頁から、上記の言葉を抜き出していたんですね。しかもそこに書いてあるメモには、現場撮影ではなく、何年もまえに撮影した作品の焼きましを依頼された、そのネガのメモも含まれている。年代別に整理された写真とは、時代が合わなくて当然なんです。

  この本が刊行されから晩年のドアノーと家族ぐるみの付き合いがあった、俳優であり詩人であり歌手でもある、ピエール・バルーさんと公の場でお話しする機会に恵まれました。彼が撮影したドアノーの映像(緒形拳がドアノーを訪ねていくと言うドキュメンタリー)の上映にあわせた対談だったのですが、その折にこの伝記のことを聞いてみたのです。過度に凝縮されたこの文章、簡潔ではあるけれど、簡潔すぎて不明瞭な節々があるこの文章を、フランス人読者が読んだらどう感じるのかと質問してみたのです。友人ですから、この本を彼は直接ドアノーから贈られていました。読んで驚いた、と彼は即答しました。「あなたのいうとおりだ、さっぱりわからない」と。生身のドアノーは、そんな人間ではなかった、いつだって気さくに、わかりやすく話してくるし、気取ったところはひとつもない、すばらしい人間だった、しかし、文章になると、どうしてこんなことになるんだろう。バルーさんも頭を抱えたそうです。気取っているとは言い切れませんが、あえてわかりにくく書いているという点については、意見が一致したんですね。それで安心しました。ドアノーはつまり、このわかりにくさを残したかったんだろうな、と思ったんです。

  ひとつ言い添えると、先のアトリエ・ドアノーでは、ドアノーがメルシエさんに送った手紙を見せていただきました。つまり、『不完全なレンズで』の原型です。手書きで書かれた返信を、次女であるアネットさんがタイプしていたんです。そして、ドアノーはそのタイプ原稿に手を入れている。つまり校正しているんです。ただの言いっぱなしではない。書き言葉として意識したうえで、やりとりしていた。ですから、全体の構成は編集者のものでも、切り貼りされた部分の文責はドアノーのものになる。書き手としてのドアノーがいたことは、まちがいありません。

 イメージのつながり、音のつながり。詩人たちに学んだ言葉が、彼のなかでどんなふうに庶民の言葉と融合しているのか。そして、写真の世界とどうつながってくるのか。それは、今後明らかになってくることでしょう。


堀江敏幸(ほりえ・としゆき)
1964年生まれ。作家、仏文学者。早稲田大学文学学術院教授。ロベール・ドアノー『不完全なレンズで』の訳者。
パリ、フランスを舞台にした作品に『郊外へ』『おぱらばん』『子午線を求めて』『ゼラニウム』『魔法の石板——ジョルジュ・ペロスの方へ』『河岸忘日抄』などがある。『郊外へ』では、ドアノー、サンドラールについてふれている。写真にかかわるものでは、エルヴェ・ギベール『幻のイマージュ』の翻訳がある。

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