ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト

第二回

『化学教程』

第一部
第一編 物体の諸要素とそれらの構成について

第一章 物質の原質(1)について

[A:1, F:9, C:57]自然学physique(2)、とりわけ博物誌に利点があるということは、もはや無学な人たちの間でさえ自明である。私たち自身についての知識、すなわち私たちの身体〔物体〕corpsについての知識、そして私たちを取り巻いている物体についての知識は、私たちの自己保存、安楽、楽しみにとって非常に有益である(3)、ということをすべての人々が認めている。それゆえ、自然学と博物誌の一般な利点を明らかにすることはもはや問題にはならず、誰もその利点について議論することはない。

(1) 原質principesとは、物質を構成するものを意味する。
(2) physiqueは、現在では「物理学」と訳されるが、当時はより包括的な学問分野であったため、本書では「自然学」と訳す。
(3) 安楽commodité、楽しみplaisirsの二語がシャンピオン版では抜け落ちている。

[C:58]〔だが〕化学と呼ばれる自然学のこの一分野については、事情が全く違う。多数の偉大な哲学者たちを生んだこの偉大な時代にもかかわらず、その時代に人々がなした進歩、そしてその進歩から得られた利益——その利益が健康に関するものであったにせよ、教育〔教化〕instructionに関するものであったにせよ——にもかかわらず、そして化学が人々の財産である技術を富ませるような素晴らしき多くの発見を有しているにもかかわらず、啓蒙されたはずの人々でさえ、今日でも化学を無用で空想的な研究であるとみなしている。彼らはさらに、化学の主要な探求はありもしない〔錬金術の〕変成transmutation(4)か有害な治療(5)のみを目的としている、とみなしているのだ(6)。[A:2]しかし、物質とよばれるあらゆるものから獲得できる最も確実な知識へと私たちが到達しうると見込めるのは、唯一化学によってであると思われる。というのも、化学の目的とは物質の本質esssenceを知ること、物質の内的構造を詳述すること [F:10]、それによって化学が私たちに示す様々な様態modesや偶有性accidentsの原因を発見することだけなのである。自然学は物体をその運動、形象、その他の似たような変化〔様態〕によってのみ考察する限りにおいて、諸物体が相互に産出し合う効果〔結果〕effetsのいくつかについて判断することを私たちに教えてくれる。しかし、自然学はいわば見かけécorceと表面surfaceしか検討しないので、自然学は物質を内的にかつその固有の基体substance(7)によって認識することは少しもできないのである。そうした探求に向けられる化学は自然学のあらゆる部分の中で一番重要である。そして自然の——すなわち自然を構成する物体の——真の認識に到達するための何らかの道筋が存在するとすれば、それは物体の分析analyse(8)と物体自体を形成する要素éléments(9)に関する知識によって到達可能となるのである。それゆえ、これら二つの研究〔自然学と化学〕を分離してはならない。両者にはそれぞれ固有の探求があるのだが、この二つの研究は相互に補完しあわねばならない。かつ、それらの研究を成功させるための最良の方法は以下のとおりである。すなわち、同じ速度で両者の研究を共に押し進め、私たちの時代で最も偉大な哲学者たちにならって自然学者の諸発見を化学の操作を完成させるために使用し、そして化学の知識によって実験自然学la physique expérimentaleの謎のなかに入り込むことである。

(4) 錬金術alchimieのひとつの目的は、卑金属を貴金属(とりわけ金や銀)に変えることであった。
(5) 青年ルソーの母親の代わりでもあり、恋人でもあったヴァラン夫人は民間療法や錬金術を学んでいた。だが、ルソーは彼女が学んでいたそのような学問を悪く思っていたようである。「彼女〔ヴァラン夫人〕のうけた教育は雑然としていた。〔中略〕彼女は哲学や自然学の原理を多少は知っていたが、彼女の父が持っていた民間療法や錬金術への趣味嗜好も持っており、不老薬やチンキ剤や練香や妙薬を作ったりしていた。秘法を持っていると彼女は言っていた。こういう夫人の弱みにつけこんで、ペテン師どもは彼女をとっつかまえ、食いさがり、破産させた」(Confessions, OC, t. I, p. 50.『告白』(上)、桑原武夫訳、岩波文庫、1965年、73頁)。
(6) ルソー原注: 技術が化学から引き出した利点の詳細について私たちは以下で詳述するだろう。
(7)本訳では、matièreとsubstanceのレベルの違いを考慮して、前者を「物質」と、後者を「基体」と訳した。Vocabulaire technique et critique de la philosophie(s. v. « substance », Lalande, André, Vocabulaire technique et critique de la philosophie (9e éd), Paris : Presses universitaires de France, 1962)では、化学の分野で使われるsubstanceをmatièreで言い換えている(むろん、アリストテレス以来の「基体」の三種類の区別を背景としている。『形而上学』1029a2-4を参照)。また、ルソーのテキストにおいても、両者はほとんど置換可能な場合が多いので、同じ訳語を当てることにした。
(8) 分析analyseとは、物体を構成物質に分解することを意味する。この「分析」概念は、『化学教程』における最重要概念であると言ってもよい。本書におけるルソーの課題を端的にまとめれば「どのようにして物体を分析することが可能であるか」である。『化学教程』の中でルソーは先人の化学者たちの分析方法の不十分さを指摘し、化学的分析の彫琢を目指している。また、「分析」概念は彼の政治思想における方法論にとっても重要である。詳しくは、以下の拙著論文をご覧頂きたい。淵田仁「なぜルソーは「分析」を批判したのか?——ルソーの『化学教程』についての試論」、『フランス哲学・思想研究』第16号所収、日仏哲学会、2011年刊行予定。
(9) 要素élémentsとは、物体を構成する素材を指す。『化学教程』では、アリストテレスの四元素説が要素élémentsとして採用されている。すなわち、火、水、空気、土である。

[C:59]しかしながら、私たちが知っているあらゆる物体は——それらの間にいかなる差異があろうとも——、共通の特性propriétésを持っているので、それらの物体が同様の要素で構成され、これら要素の組み合わせだけが各々の類genreと種espèceを構成していると考えることは当然である。一般に物体および物質と言う場合、延長し、不可入impénétrableであり(10)、一定の形をもち、運動しうる物質を意味する。[A:3]すなわち、色、味、におい、頑丈さや硬さの度合い、限定された形象といったものを含んでいる個々の部分的物質〔基体〕substanceは、その本質を少しも構成していない様態であり[F:11]、それらの検討からその本質を知ることは全くできないのである。このような考えによって、幾人かの哲学者たちはあらゆる偶有性が取り除かれた一つの根源的物質〔第一質料〕une matière première(11)、すなわちあらゆる物体の源を想像したのである。しかし、どのような権利で彼らはその根源的物質というものを揺るぎない真理として認めたのであろうか? どんな実験によって彼らはそれを発見したのか? あるいはどんな実地検証démonstrationsによってその存在を確信したのであろうか? そのような仮説についての真理を明らかにすることが、化学の役割なのである。分割と分解によって、私たちが世にいう根源的物質にようやくたどり着き、私たちがその物質をあらゆる物体の分析によって同様に得られるならば、その〔根源的物質の〕存在を疑う余地(12)はもはや存在せず、私たちはある一つの原質あるいは一つの要素を認識せざるをえない。そして形象や運動によって組み合わされているその原質、要素は、自然の光景(13)が私たちに与えてくれるような類や種の多様性のなかですべての異なる物体を生み出すのに十分な存在であろう。しかし、この〔化学の〕技術が、最後の砦、すなわちあらゆる他の物体を構成する真に単純な物体へと私たちを導くまで、私たちにはその存在を疑う権利があり、それを発見するのに感じる困難は自分たちの手腕の限度や探求の妄想に由来するのかもしれないと疑う権利が私たちにはあるのだ。

(10) 不可入については、マルブランシュ『形而上学と宗教についての対話』、第7対話、§ 12、「物体の不可入性impénétrabilité du corps」にて議論されている(Malebranche, Nicolas, Entretiens sur la métaphysique et sur la Religion, in Œuvres complètes de Malebranche, t. XII, publiées sous la direction d’André Robinet, Paris : J. Vrin, 1991, p.164. ニコラ・マルブランシュ『形而上学と宗教についての対話』井上龍介訳、晃洋書房、2005年、113頁)。哲学において、不可入性とは、二つの物体が同じ場所に同時にあることはないという物体の本性である。
(11) 根源的物質une matière premièreとは、いわゆる第一質料prima materiaを指す。この表現は、スコラ哲学のなかで成立した(確かにアリストテレスは、『形而上学』第5巻第4章(1015a7)でprôtê hylêという表現を使っているが、これはスコラ哲学のなかで説明されるprima materiaではない)。このprima materiaとは、形相と結びついてない純粋な質料を指し、あくまで理論上想定される概念と見なされる場合が多い。事実、アリストテレスも、この質料に相当する「共通物体koinon sôma」の実在性を同様の理由で否定している(『生成消滅論』320b23)。以上の点を踏まえつつも、本書ではある物質の元となるものという化学的な意味で、「根源的物質」と訳す。また、ディドロ・ダランベール編集による『百科全書』(L’Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de letters, 1751-1772)の項目「アリストテレス主義ARISTOTELISME」も参照してほしい。残念ながら、この項目の翻訳はないのだが、ウェブ上で原文を見ることは可能である。シカゴ大学が提供しているウェブサイト「The ARTFL Encyclopédie」では、『百科全書』オンライン検索が可能となっている。
(12) 疑うdouterという語は、『化学教程』手稿の余白に付け加えられている。
(13) 自然の光景spectacle de la natureについては、『化学教程』第一部第二編第一章「自然のメカニズムについて」を参照せよ。そこでルソーは自然を一種の「劇場」として表現している。このような自然の運動を「劇場、スペクタクル」というメタファーで表現することは17世紀から盛んであったようだ。例えば、フォントネル[Bernard le Bovier de Fontenelle, 1657-1757]の『世界の複数性についての試論』(原著1686年、日本語訳はベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル『世界の複数性についての対話』赤木昭三訳、工作舎、1992年)では、自然に対してこのメタファーを用いて、自身の機械論的自然観を展開している。

〔ところで〕化学の目的は、自然的な物体をその構成物質の諸原質へと分解すること、自然的な物体へと再構築すべく物質の諸原質を再結合すること、新しい物質substancesを作るために諸原質を組み合わせることにある。それゆえ、何よりもまずこれらの諸原質を認識するために混合物、合成物のなかの諸原質の結合を断つ何らかの手段を発見し、[C:60]諸原質を一つひとつ、おのおのの量に応じて、それらを内包している物質から引き出すことが問題となるのである。[A:4] よって、以下のことは自明であろう。すなわち、仮に、私たちが互いにもっと異なる物体同士を分解し[F:12] 、それらを単純かつ他でありえない別の物体——これらは私たちのあらゆる分析において質という点で常に同じであり、これら別の物体を固有の同じ量において再結合することによって、元の物体が再び産み出されるのだが——へと変化させることができたならば、これら別の物体は物体なるものの真の原質ないし要素であり、全宇宙はそれらの結合と組み合わせによってのみ形成されている、と当然私たちは結論するであろう。かつ、仮にこれら諸原質がたった一つの原質に還元できれば、それは確かに哲学者たちがいう根源的物質であろうし、その物質は、あらゆる物体の基礎であり基体であろうことは自明である。ところで、このような根源的物質は、観念としては純粋な抽象概念でしかない。それゆえに、実験が私たちを納得させることがない限り、そのような根源的物質は実際に存在するものとして認められることはない。

火は、化学者たちがこの〔物体を分解する〕分析の際に用いる主要な動因agentであり、それゆえに彼らは以下の原理原則に基づいているのである。〔すなわち〕物体を構成している要素がどのようなものであろうと、私たちの力学的な操作industrie mécaniqueは、物体を分割し、かつその物体を構成している部分〔原質〕に分解することができるいかなる手段instrumentも私たちに与えてくれない。というのも、私たちが任意の物質substanceから取り出す何らかの部分——それは〔その物質を〕構成している原質でもあるが——は、当の物質にとって常に必要不可欠なものであるからだ。とすれば、鉛の塊に私たちがどれほど多くの切断を加えようとも、極限的に小さな鉛の粒子しか得られないであろう(14)。要素の小ささは、要素の形象と同様に常に私たちの感官sensから、つまり最も鋭敏な私たちの道具から逃れてしまうだろう。[A:5]それゆえ、私たちの探求にとって、個々の原子atômeにおいて特定の大きさや形象を想定しようとすることは無意味である。というのも、この形象と大きさは知られることはなく、それらについて私たちが得られるかもしれない認識はそれらを解体する手立てを与えてくれないであろうから[F:13] 。このような〔原子が形象や大きさを持つという〕考えを捨てさりつつも、原子が特定の重さを持つという考え、火が掻き立てる運動、そしてあらゆる物体[C:61]——主に植物や動物のように緩みやすく、破壊しやすい構成をもつような物体——の中で火が生み出す希薄化といったことに私たちが取り組むと仮定しよう。そうすれば、火によって気体に変化し容易に上昇する物質は非常に軽いということ、そして少しずつ火を強くすることによって、他のあまり軽くないものが後続して上昇し、最後に最も重いものが火の最も激しい作用でも上昇することなく抵抗するものであろう、ということを私たちは認めることになるだろう。このような方法によって、私たちは一つの物体の脱構成に成功し、重さと同様に質においても互いに異なる様々な他の物体へと一つの物体を分割することに成功する。〔この分割された物体の〕部分において、それら個々の物質に対して再度同じ操作を施すことによって、それらをその他の物質に再分割することを人は試みてきた。こうして、火が分解résolutionや化合combinaison——これらに対して火は何も影響力がないのだが——によってもはや分割も脱構成もなしえないような変化しないものに、私たちは遭遇するに至るのである。そして、そういった〔分割も脱構成もなしえない〕物質があらゆる物体の分析から得られるのであれば、そこから、これらの物体は本当に単純で純粋な物体であり、そのような単純な物質は混合物を含んでおらず、かつ化合物である他のすべての物体の要素、ないし原質であるということが結論されるだろう。〔ところで化合物である他の物体はそれを構成する要素ないし原質の〕量および結合の仕方という点でのみ異なる。

(14) ルソー原注:ここで無限という語を、長く引き伸ばされた分割、極めて微細な部分というように広い意味において考える必要がある。

以上が化学者によって用いられる〔物体の〕通常の分析についての大雑把で不完全な考えである。よって、 以下においては 、分析をどのような場合に行うべきか、また分析はどこまで拡張されるか、そして分析を補うためにどの方法が用いられるかについて知ることになるだろう。

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