森山大道のOn the Road

にっぽん劇場 (4)

大竹昭子

 「あたみ」を撮った後、歌舞伎町界隈をカラーで撮った「オープン・セット〈新宿〉」を『カメラ毎日』に発表。これは新宿の街路を撮った最初であり、現在につづく新宿のストリートスナップの第一歩だ。

—新宿も熱海のように情痴小説がらみの興味ですか?

「いや、情痴小説に出てくるのは銀座や新橋や有楽町です。あと住宅街の松濤とか田園調布とか自由が丘。新橋はぼく好みだったけど、あとはまったく興味がなかったです。だから新宿はぼくにとって情痴文学から離れられた場所なんですね。東京に出て来てからいつも通りすがる場所だったし、自然にカメラを持ってうろつくようになったんです。」

—特にこれという決まったイメージはなかったんですね。

「そう、体質的な近さですね、自分の好きなにおいのする場所だった。「オープン・セット」の前に「純喫茶」というのを撮っているんですけど、それも新宿です。当時は「新宿」という地名を意識していたわけじゃなくて、自分が日常的に触れている場所を撮ったら新宿だったという感じでした」

 この頃から『朝日ジャーナル』のグラビアでも仕事をはじめているが、そのなかの「ヌードスタジオの“モデル”」というのも撮影地は新宿である。ヌードスタジオは表向きはヌードをスケッチをする場所で、行くと鉛筆とスケッチブックを渡され、話がまとまると2階に上がるという一種の売春施設だったが、写真撮影に制限があったのでモデルのひとりと仲よくなってアパートに撮りにいったりもした。
 また別の号の「現代“河原者”」は興行中の唐十郎の紅テントを載ったものでこの撮影も花園神社。新宿を撮っている意識のないままこの街と関わりを深めていったのがわかる。それから30数年後、彼は『新宿』というタイトルの写真集を出して体質的な近さを掘り下げていったが、そこから何が浮き彫りになったかは後のページに譲るとしよう。

 もうひとつ『にっぽん劇場写真帖』について触れておきたいことがある。この写真集には『カメラ毎日』『朝日ジャーナル』『アサヒグラフ』など、さまざまな媒体で発表した写真が一冊にまとまっている。当時は依頼されて撮った写真と自主的に撮った写真は別物と考えるのが一般的で、作品集のためにはこつこつと撮り溜めることが多かった。「どっちも写真じゃないかという気持ちだった」と森山は言い、直感的な判断だったようだが、フレーミングやプリントのトーンに統一感があって写真のスタイルが明確だったこともそれを可能にした理由のひとつだったように思う。

 当時の森山は、仕事の撮影でも対象を自分で選んで思うように撮る自由を得ていた。一般誌では『朝日ジャーナル』の仕事が多かったが、そこにはグラビア班の嘱託スタッフとして写真家の長野重一がいて、写真家に企画を出させたり写真ページの構成していた。長野によれば、当時いちばん持ち込みが多かったのは森山と中平で、森山は紙の手提げ袋に現像したフィルムを詰めてよく編集部に見せに来たという。ハーフサイズカメラを使ったものも多く、画像が小さい上に量が倍あって目を通すだけでも大変だった。

 撮りはじめた時期と一般誌に勢いのある時期とが一致したのは、森山のデビュー期の大きな特徴である。写真は撮っても印刷されなければ人目に触れないし収入にも結びつかないから、これは非常な幸運だった。雑誌の勢いが彼の意欲をかきたて、その順風をはらんで恐ろしく速いスピードで自分のスタイルを確立させたのだった。 時代状況が「森山大道」の登場を準備した。ひとまずそう言うことができるだろう。


大竹昭子(おおたけ・あきこ)
ノンフィクション、エッセイ、小説、写真評論など、ジャンルを横断して執筆。トークと朗読の会<カタリココ>を各地で開催している。 著書に『この写真がすごい2008』(朝日出版社、2008)、『きみのいる生活』(文藝春秋、2006)、『眼の狩人』(ちくま文庫、2004)、短編集『随時見学可』(みすず書房、2009)、『あの画家に会う 個人美術館』(新潮社とんぼの本, 2009)、長編小説『ソキョートーキョー』(ポプラ社、2010)など他多数。
web: 紀伊國屋書店「書評空間」の同人。草森紳一記念館「白玉楼中の人」で「目玉の人」を不定期連載。

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