哲学書房 哲学書房について

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ご挨拶

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 ひとが生きて在ること、「いのち」が「私」になる道行に与って、「書物」は生を享けました。普遍(無限)から個をくびりだす魂の営みを駆った「書物」は、普遍と個を結ぶ靱帯となりおおせたのでした。理性が知性にとって代わった時代を通して、書物は魂の代謝の過程に棲みついてひとの生を養い、そのことによって自らをも養いました。


 こうして「書物」は、文字通りTHE BOOK(とはつまり『聖書』のことにほかなりません)のミュータントであり、世界と釣り合い、そのメタファーとなり、ついには世界そのものと化したのでした。おびただしく増殖したこの特異な「書物」の像(エイドス)が、ひとの歴史とおなじ歴史を閲した、まごうかたない書物に投影されて、誤った書物観が象作られたのでした。前の世紀の後半を色濃く染め上げた構造主義・テクスト理論や、その奇妙な嫡出子ともいうべき、コンピュータと「書物」とのハイブリッドの試み、は、のがれようもなく、この錯誤のもとにあったというべきでしょう。


 けれども今日、「私」の生成の原理が変容を始め、魂のハイパーサイクルがもはや「書物」を不可欠の要素とはしなくなって、「書物」は自らの生の条件を、端的に失いました。くもりない眼をもって、ありのままに、書物のゆくたてを吟味し、今、まぎれもない死を死につつある、理性の時代を刻印された、あの特異な「書物」に代わって、いまだ未生以前の、来るべき書物の可能性を探る、これが私どもの使命であると思います。ここに記したように、書物を問うとは、ひとの生きてあることを問うことにほかならず、いくぶん硬くいえば哲学の問題系を問うことと同義だからです。もとよりそれは、書物という反応系の web 上への転生の可能性を見極めることをも意味します。ここに広く読者(いうまでもなく著者に先立って読者は在ります)の方々との交感・観照・感応の場を開くゆえんです。

2002年3月1日  株式会社哲学書房
(中野幹隆 - 記)

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