月曜社 Getsuyosha Limited 書籍出版 人文社会・芸術書

森山大道のOn the Road

大竹昭子

大竹昭子(おおたけ・あきこ)
ノンフィクション、エッセイ、小説、写真評論など、ジャンルを横断して執筆。トークと朗読の会<カタリココ>を各地で開催している。 著書に『この写真がすごい2008』(朝日出版社、2008)、『きみのいる生活』(文藝春秋、2006)、『眼の狩人』(ちくま文庫、2004)、短編集『随時見学可』(みすず書房、2009)、『あの画家に会う 個人美術館』(新潮社とんぼの本, 2009)など他多数。最新刊は 長編小説『ソキョートーキョー』(ポプラ社、2010)。
web: 紀伊國屋書店「書評空間」の同人。草森紳一記念館「白玉楼中の人」で「目玉の人」を不定期連載。
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連載15  

■何かへの旅 (1)

 この章で取り上げるのは、『にっぽん劇場写真帖』を上梓して芸人シリーズに区切りをつけた1968年から1973年までの活動である。年齢的には30歳から35歳にあたるこの5年間は、森山大道の名前が写真界のみならず、世間に広く知れわたった時期だった。ブレたりボケたりした写真を発表して従来の写真に牙をむく若手写真家として持ち上げられ、追従者もたくさん現れて一種の流行現象のようにもなった。
 だがそれとは裏腹に森山は混迷してくる。写真とは何か、写すとはどういうことか、という根源的な問いが浮上して以前のようには撮れなくなったのである。
 世間的な注目がピークに達したのは1970年だった。新年早々に朝日新聞ではじまった「いまの人は、70年代の百人」という連載で、「わざわざピンボケに撮った写真を発表するカメラマンがあらわれた」とセンセーショナルに紹介された(1月8日朝刊)。「11PM」をはじめとしてテレビ・ラジオにも多数出演し、電化製品の新聞広告をドキュメンタリータッチで撮ったり、『週刊プレイボーイ』でヌードグラビアを篠山紀信と交互連載したりと、これまでとはタイプのちがう仕事にも手を染めるようになる。
 『週刊プレイボーイ』の連載は従来のヌード写真の型を脱しており、いま見てもみずみずしさを放っているが、長くはつづかず4ヶ月で終わっている。自分と関わりのないモデルを撮るのは退屈で、かといって仕事として割り切ることもできず、降りたいと申し出たのだった。だれもが欲しがるはずの仕事を自ら断るとは思ってもみなかったらしく、担当編集者は一瞬何のことかわからないような顏をしたという。
 アサイメント仕事は自分に向かないと感じたのは、『フォトアート』でオリンピックのカヌー練習を撮ったときで、おもしろい写真にならず粒子を荒らしたことは前に書いたが、『週刊プレイボーイ』の仕事でもおなじことを自覚し、自ら編集部に提案して撮るというこれまでの方式にもどっていくのである。
 この時期のおもな活動場所は『カメラ毎日』『アサヒカメラ』『アサヒグラフ』『朝日ジャーナル』の4誌である。60年代後半、グラフジャーナリズムはいまでは想像できないほどの影響力をもっており、『アサヒグラフ』は写真の迫力で見せる雑誌として公共機関の待合室には必ず置かれていたし、『朝日ジャーナル』は当時の社会状況にシンパシーを示す硬派の週刊誌として、若者を中心に大きな支持を集めていた。
 カメラ雑誌はカメラの新機種の診断と紹介、プロの作例、写真コンテストの三つを柱とした日本特有のアマチュア向けの啓蒙誌で、戦後のカメラブームにのって一時は10誌を超える数がでていた。60年代から70年代にかけて、それらは新しい写真表現を模索する場所として盛り上り、若手写真家は少しでも多くのページをもらおうと互いにしのぎを削りあったのである。大手カメラ誌の場合は原稿料も悪くなく、取材費も潤沢に出た。コンスタントに企画をだして仕事をすれば生活の保証はもちろんのこと、自分の思う対象を思うように撮って写真表現を突きつめることが可能だった。このように「カメラ雑誌」が「写真雑誌」であった奇跡の10年間に、そこからデビューし、成長していった写真家の典型が、森山大道だったのである。


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