『文化=政治』(毛利嘉孝=著、月曜社刊)より序文「はじめに」


 空間が叛乱をおこしている。
 ロンドンで、ニューヨークで、ベルリンで、シアトルで、ジェノバで、東京で、そして世界中のいたるところで叛乱は起こっている。
 叛乱の形式はさまざまである。ある場合には、具体的な要求を伴った政治的デモや集会として組織される。またある場合には、単なるお祭り騒ぎ、カーニバルとして勃発する。こうしたデモやカーニバルはしばしばそれを取り締まる側との深刻な対立を生み、暴動へといたることもある。
 面白いのは、こうした政治的なデモや集会、カーニバル、暴動といった事象が、その動機や背景の多様さにもかかわらず、九〇年代以降どれも似たようなスタイルをもって現れていることである。派手なコスチューム、巨大なぬいぐるみ、爆音で鳴り響くサウンドシステム、ドラムや楽器などの鳴りもの、美しくデザインされたプラカードやバナー、パフォーマンス、ダンス。こうした要素は、旧来のデモや集会などの「政治」の風景を大きく変えつつある。
 これまでしばしば過剰に生真面目だった政治という領域が、ここにきて急速に悦楽的な領域へと変容しつつあるのだ。空間の叛乱は広がっている。時にはひとつのデモに一〇万人以上もの人びとが集まることもある。しかし、数が問題ではない。今広がっている叛乱は、ひとりひとりがその自律した、ばらばらの存在のまま自然発生的に集まっているのだから。この中心のなさ、組織のなさ、ヒエラルキーのなさは、この新しい運動の特徴である。
 こうした運動は、一見とても享楽的で、楽天的で、しばしば自己中心的にさえみえるかもしれない。しかし少し目を凝らしてみると、こうした特徴が、どうしようもなく袋小路に追い込まれている現状に対して取られた、おそらく唯一の可能な戦術であることがみえてくる。
 本書が明らかにしたいのは、二一世紀の変わり目に突然登場したように受け取られている空間の叛乱が、この一〇年もの間にゆっくりと発展してきた過程である。本書が取上げた、シアトルにおけるグローバリズム運動、ACT UP、リクレイム・ザ・ストリートやクリティカル・マスなどの反道路運動、日本の反戦運動は、空間の叛乱の端的な例である。そして、この運動はヴァーチャルな空間にまで広がっている。
ここで私が「新しい文化= 政治運動」と呼ぶ運動は、この多様な新しい運動のあり方の総称である。それは、伝統的な政治運動の形式である階級闘争と、七〇年代以降先進国で見られた環境問題、反戦運動、フェミニズムなどの「新しい社会運動」などの影響の下にありつつも、これまでになかったまったく新しい特徴を示している。そして、このことが世界中の多くの若者たちをひきつけつつある。
 いったい今何が起こりつつあるのだろうか? 本書はこの問いに答えようとしたものである。
 しかし、「今何が起こりつつあるのか」を検証することだけが重要なのではない。より重要なのは、「今何をすることができるのか」ということである。だが、このことは一足飛びに伝統的な政治のカテゴリーの実践である選挙投票や、デモや集会に参加したりすることを呼びかけているわけではない。「何をすることができるのか」という問いかけが暗黙のうちに期待してきた規範がまず疑われなければならないのだ。本書が、伝統的な政治だけではなく、しばしば伝統的な政治からは排斥されてきた文化的な実践も扱っているのは、その答えを限りなく多様化するためである。
 「新しい文化= 政治運動」のほとんどは、空間をめぐる運動である。このことが「新しい文化=政治運動」に独特の切迫した「現在」という時間の感覚を与えている。重要なのは、まさに私たちが身体とともに投げ込まれている「現在」をどのように変容するのか、私たち自身で考えることなのだ。それは、もうひとつの、ありえたかもしれない「現在」をラディカルに想像することでもある。


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