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ブランショのほうへ

 ブランショについて、その死について、書く。どのようにしてそれに耐えられよう。
 ブランショはマラルメの書簡を引く。「不幸なことにかかる地点まで詩句を掘り進んでいったとき、私は私を絶望させる二つの深淵に出会った。一つは虚無で……」。「幸いにも私は完全に死んだ」とマラルメは記す。詩句を掘り進む者は深淵としてのおのれの死に出会うのだ。そしてマラルメはただ机の前の鏡に映った自分を見つめることでのみまだ思索することができる。そうした死の体験を文学思考の根底としたブランショの死について、どのように語りえようか。
 「私が〈花〉と言う。すると私の声がいかなる輪郭も閉じこめていない忘却の彼方から、よく知られた萼とは別の資格で、優にやさしい観念そのものが、あらゆる花束の不在が、音楽的に浮かび上がってくる」。
 そう、そのようにしてのみ書くことは、文学は、可能となるであろう。だが同時に、ブランショがそこに読むのは、言語の経験そのものである。私が〈花〉と言う。すると、私の前には、花も、花のイメージも、花の思い出もない、花の不在があるのだ。語は、それが意味するものをわれわれに与えるが、まずそのものを抹殺する。語はわれわれに存在を与えるが、存在を奪われた存在を与えるのだ。語が語るとき、死が世界の中に放たれ、その語るものの死を告げる。しかしそれゆえに、死は語の中にあってその意味の唯一の可能性であり、われわれに存在が与えられる唯一の可能性である。言語とは、「死を担い、死の中に自己を支える生命である」。言語は、その語るものの死においてのみ、本質的言語として立ち現れてくるものなのだ。しかしそれは、われわれに死のうちで語ることを要求する。書くことは〈私〉の死を要求する。言語とは、この死せる〈私〉の生命なのだ。マラルメが「純粋な作品の恐るべきヴィジョン」に到達するのはこの死のうちでなのだ。
 死は、言語の唯一の可能性であり、死すべきものであることはわれわれが人間であることのただ一つの希望である。とはいえ、私は死ぬことができるのか。私は〈私〉の死をもつことができるのか。私は〈私〉の死を語ることができるのか。死は世界のうちでのみ死であるが、しかし死は世界を破ることである。私が死ぬとき、私は死すべきものであることを失い、もはや死ぬことができない。死は私に到達することのないもの、私の死ぬことのできないもの、実存の呪いであるものとして、私の不可能性の死であることしかない。書くことで存在に到達する可能性はどこにあるのか。だがそうだ、幸いにも言語は物だ。それは書かれた物、インクの跡、塊、頁の一片、本である。それは、〈私〉の不可能な死の物であり、〈私〉に到来することのない死の物であるが、〈私〉が存在であることの唯一の希望である。
 文学は、〈私〉の不可能な死を担い、その語りえない死を自らの生とする。それは文学の災厄であるが、またその僥倖でもある。「頁にひろがるおののき」、それは言語の不可能な死の証しにほかならないが、文学はその不可能性の僥倖においてまた、〈他者〉に出会い、〈世界〉に連帯することができる。それは〈友愛〉の言語となり、街頭の言語となり、〈共同体〉の言語となることができる。
 ブランショは死に到達したのか、死は訪れたのか。そう、確かに、取り返しもつかず。だが、言語なるもの、文学なるものが存在するかぎり、その死は、あらゆる忘却のうちで、来るべき作品への待機、書くことへの促しでありつづけ、〈友愛〉への呼びかけでありつづけている。
 おそらく、ブランショの死について語ること、それは〈私〉の死を言語とすることによってのみなしうるであろう。

2003年4月3日
池上達也

copyright 2003 by Tatsuya Ikegami

いけがみ・たつや:フリー編集者


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