◆ブランショ追悼◆ 林茂雄 安原伸一朗 西山達也 郷原佳以 廣瀬純 西山雄二 福島勲 池上達也 小林浩

足踏み(MARQUER LE PAS)――ブランショと死

◆モーリス・ブランショという固有名詞には謎めいた匂いがつきまとっている。彼のプロフィールや肖像があまり明らかにされてこなかったという事情もあるには違いないが、彼の作品が纏っている匿名性あるいは抽象性(それが具体的な物語、自伝的な物語であってもそうなのだ)が、我々にそう感じさせるのではないだろうか。正体が汲み尽くせない「謎の男」、それがブランショだった。一体モーリス・ブランショとは「誰?」なのか――。
◆その謎ゆえに私はブランショに魅せられる。ブランショの作品をいくら読んでも、その謎を前にして何度歩み寄ろうとしても、その謎はなかなか近づいてこない。しかしながら、その謎がいつしか、これまでとは違った別の謎(どこか親しみさえ感じさせるような不可思議な謎)に変質してゆくような感覚が与えられること、それがブランショを読むことの歓びなのだと私には思われる。
◆ブランショのテクストは難解だとされているが、文章がそれほど複雑に構成されている訳でもなければ哲学的概念が駆使されている訳でもない。むしろかなり平明な言葉と文体でそのテクストは織られているともいえよう。その難解さの所以は、彼が表現することの困難なものを記述しようとしているからなのであろう。たとえば、沈黙を語ろうとすること。
◆ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言った。ハイデガーはこう言う、「沈黙について、誰が黙りうるだろうか」と。沈黙は言葉を孕み、言葉は沈黙を孕んでいる――こうした逆説的表現を、ブランショの中に無数に見出すことができる。「〈中性的なもの〉、死ぬことの穏やかな禁止、閾から閾へと、眼差しももたない目、沈黙が、私たちを遠いものの近さにもたらすそのところで、生者たちと死者たちとの彼方でまだ言われるべき言葉、証し立ての不在のために証言しながら」(『彼方へ一歩も』)。
◆眼差しなき目、沈黙の言葉、遠いものの近さ、証し立ての不在のための証言‥‥。こうした逆説的表現で記述されるのは「中性的なもの
le neutre」であるが、もちろんハイデガーにおける「不可能性の可能性」という言葉と無縁ではないであろう。ブランショはハイデガーの思想から、特に彼の《死》の思想(不可能性の可能性としての死)から、多くの影響を受けて歩みを共にしている。だが、最終的な地点で両者は別れる。
◆ブランショはカフカについてこう書いている。「死を前にしておのれを支配し続け、死に対して主権的な関係を打立て得た場合にのみ、書くことが出来る」と。そしてカフカは「芸術が、死との関係であることを深く感じている」といい、それがなぜかといえば、「死が極限的なものだからだ」としている(『文学空間』)。ブランショにとって(またカフカにとっても)、書くということは極限的な時空に身を置くことであり、文学空間とは死に臨む空間の別名となる。
◆《死》は、ブランショの作品におけるひとつの主題だった。ただ主題のひとつだったというのではない。それなくしてはブランショについて語り得ないほどの最も重要な主題だったといえる。彼の作品のすべては死を記述しているとさえいえるだろう。というのも、彼は死を思考することによってのみ文学(書くこと)を思考したのだから。しかし、死とは経験不可能なものであれば、探求するためにこれほど困難な主題もない。
◆〈私〉が死ぬのではなく、「〈人〉が死ぬのであり、〈人〉が死に続ける」とブランショはいう。ひとつの存在が死ぬ時には、〈私〉という人称も消え去るのだから、決して〈私〉は死ぬことができない。《死》は不可能な経験であり、「経験されざる経験」である。それゆえに、《死》は決して〈私〉のものとはならない「他なるもの」であり「外」であり「非人称的なもの」だ。《死》は「誰?」という疑問符つきの人称にかかわるものだ。そして、死の絶え間なき切迫のうちに、エクリチュール(書くこと)がそこから生まれるのである。
◆〈私〉は死ぬことができない。死に続けることができるだけだ。「死
la mort」という名詞の手前で「死にゆくmourir」という動詞を反復できるだけだ。《死》は場所を持たないし、《死》が存在することはない。《死》へと向かう運動だけがある(ここで「ある」という表現が可能だとして)。《死》という存在の彼方への一歩は永遠に踏み出せないまま、〈私〉は終りなき足踏みをし続ける。ブランショの作品のいくつかの書名はこうしたテーマにおいて象徴的である。

  「彼方へ一歩も
Le pas au-dela」(pasには歩みと否定の意がある)
  「踏みはずし
Faux pas
  「永遠の繰り返し
Le Ressassement eternel
  「死の宣告
L'arret de mort」(arretには宣告の意と停止の意がある)

◆ブランショ最晩年のテクストの書名は、「私の死の瞬間
L'instant de ma mort」と題されたものだった。彼が最後まで《死》を思考し続けてきたことが窺われよう(本来ならば、この作品と呼応する『白日の狂気』という物語を、そして遠くで共鳴する別の物語『死の宣告』をも参照すべきだろう)。邦訳で6頁ほどのこの小品に、ジャック・デリダは綿密な読解を施し、『滞留』という美しいテクストを寄せた。
◆そのデリダは、「つねに変わらぬ証人
Un temoin de toujours」と題する追悼文をブランショの火葬の際に読み上げた。その弔辞で、「まさしくここで、この瞬間、モーリス・ブランショというこの名前を口にした時、どうして震えずにいられるだろうか?」とデリダは自問する。「この瞬間」とデリダはいう。ブランショの死を前にして「瞬間instant」は「滞留demeure」する。「私の死の瞬間」とは決定的に不可能な時間であり、常に来るべき時間、決して到来することなく、限りなく待機させられる時間、そして/あるいは、常に既に忘却されている時間なのだから。
◆この時間を「関節の外れた時間」と呼ぼうか。それとも「反時代=非時間
contretemps」と、あるいは「永遠回帰の時間」と呼ぼうか。我々は待つ。「来たれViens」と呼びかけながら。そして/あるいは、我々は忘れる。自らが誕生したところの記憶なき忘却のうちに。
◆「人が死ぬ」という非人称的な時空への歩みは、常に踏み外しを、終りなき滞留を、無限の足踏みを要求する。しかしまた、こう問うこともできるのではないだろうか。死は「瞬間」として我々に絶え間なく無際限に到来し続けているのではないかと。
◆そこにおいて、ブランショが口にするのは「友愛」という言葉である。あるいはそこで、言葉というものは「友愛」となる。しかし、それは一体どんな言葉なのだろう?
◆「友愛
amitie」という言葉は、ブランショが畏友ジョルジュ・バタイユへ捧げたオマージュのタイトルでもあるのだが(しかしそれは本当にオマージュなのか?)、死に対する我々の関係抜きに、「友愛という言葉」はなく、「友愛の言葉」もない。「一切は消え去らなければならぬ、我々は、消え去りゆくこの動きに深い注意を注ぐことによって」初めて友に忠実でいられるのだから。そして、友愛の言葉とは、「死ぬという動きの常軌を逸脱した法外さが自己を確言しようとのぞむような言葉」である(『友愛』)。
◆もう一度繰り返す(あるいは何度でも)。ブランショは《死》を思考し続けてきたが、それは常に、芸術、書くこと、言葉との関係においてであった。
◆モーリス・ブランショという固有名詞。非人称的なものについて語り続けたこの謎の人は、彼自身が匿名性を纏ってきたのだが、その名前を口にする時、あたかも《死》を呼び寄せようとしているかのように感じてしまうのは私だけだろうか。ただし、そうした感覚は彼の死によって呼び起こされたわけではない。それは彼の生死に左右されるものではなく、彼のエクリチュールに最初から刻印されていたものだ。というのも、彼は常に《死》を記述しようとしてきたのだから。いや、言い直そう。彼のエクリチュールは《死》によって促されてきたのだから。
◆汲み尽くし得ない作家ブランショの方へ、ブランショの謎に向けて、私は歩み寄ることができただろうか。いや、私は一歩も前進しないまま足踏み
marquer le pasをしただけだ。私はブランショの謎を周回tourし、謎へと再帰retourし、謎を迂回detourしただけだ。「いくどもいくども、あらためて、歩みを続けてゆくのだが、別の国、別の都市、別の道が、あいかわらず、その場で、同じ国に変わってしまう」(『期待 忘却』)
◆ここに連ねた言葉は沈黙へと送り返されるだけであり、それらは何も語ったことにはならない。だが、これらの言葉を紡がせたのは、その「沈黙」ではなかったろうか?
◆もしも、ここで何かを刻むことができたとすれば、それはひとつの痕跡でしかないだろう。それはもはや見えていないが、消え去ったわけでもない。むしろ、消え去り行く動きによってのみ現れることができるかのような足跡
marque de pasなのだろう。というのも、言葉そのものがそういうものなのではないだろうか。「言葉はおのれのうちに、おのれを包み隠す契機を宿している」「言葉それ自体が、消失したものの現われに他ならず、イマージュ的なもの、絶えざるもの、終りなきものなのだ」(『文学空間』)。
◆私は異国の一読者にすぎない。それにもかかわらず、あるいはそれゆえに、私はブランショに問いかける。問いかける言葉を持たずに。そして沈黙が訪れる。だが、それでもなお、その沈黙のうちで問いかけは再び始められる。それは不可能な対話、終りなき対話だ。「彼らの存在とその言葉との間に、ある間隙を置かねばなるまい。だが、その間隙がどのようなものであれ、この言葉はその間隙そのものを常に含んでいるし、また、彼ら二人を隔て、彼らをその言葉から隔てる距離も含んでいる」(『終りなき対話』)。
◆しかし、これ以上ぎこちない言葉を重ねるのは控え、これらの言葉を沈黙へ送り返すことにしよう。まるで沈黙について語るようなこのぎこちなさが、死を思考することの、死を生きることの、あるいはむしろ、生と死の境界を生き延びることの困難さに結びつけられることを願いつつ――。

付記
 私は十数年前、「足踏み
marquer le pas」という言葉をニーチェの「永遠回帰」を言い換えたものとして用いていた。だが、やがて、この言葉をブランショの方へと差し向け直さなければならないと感じてきたのだった。
 この言葉がまず喚起するのは、不可能なものに向けての我々の歩み(停滞)なのだが、その歩まぬ歩みにおいてのみ、かろうじて痕跡が刻まれる―「歩み
pas」が「刻印marquer」される―ことを賭けてもいたのだった(デリダがブランショの作品から引き出した「滞留demeure」という言葉とも無縁ではないと願う)。
 「足踏み」という言葉は英語で「
mark time(時間の刻印)」と訳せるが、時間というテーマにおいてブランショを思考する時には、ニーチェの「永遠回帰」のほか、ハイデガーやレヴィナスの時間をめぐる思考への参照も必要とされるだろう。そして、そこではまた、必然的に死をテーマにすることにもなるだろう(「時間」を考えることなしに《死》を考えることなどできるだろうか、あるいはその逆)。
 また、「足踏み」という言葉を、日本語における戯れ=賭けから、ステップ(足)を踏むこと、つまり舞踏(ダンス)という肯定的で身体的な思考への足掛りにできないだろうかと自問してきたのだが、その自問をブランショについてのデリダの言葉の傍らに置いてみたい――「(ブランショの著作は)確かに死に捧げられています」が「そこには独特の快活さがあったと、私はあえて言い添えておきます」(「つねに変わらぬ証人」)。
 そしてまた、ここで、ブランショが読書について語っている言葉を挿入しておきたい。「読書とは事実おそらくは、隔離された空間での眼に見えぬ者をパートナーとするひとつの舞踏、〈墓石〉との楽しい、熱狂的な舞踏なのである」(『文学空間』)。
 こういったこと
、こうした歩行marche、こうした刻印marqueのすべては、余白margeに漂わせておくがままに、海域を漂流させておくがままにしよう。ただ、ひそかに「足踏みmarquer le pas」という言葉をブランショに捧げさせていただくことにしたい。誰に宛てるともなく、手紙を入れた小瓶を海に投げ込むように。それをセイレーン(サイレンス)の歌声にゆだねながら。


2003年3月18日
(2003年7月19日部分改訂)
林 茂雄

copyright 2003 by Shigeo Hayashi


◆ブランショ追悼◆ 林茂雄 安原伸一朗 西山達也 郷原佳以 廣瀬純 西山雄二 福島勲 池上達也 小林浩

追悼ページトップ