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Effet Blanchot》――ブランショの死とドゥルーズの生

 モーリス・ブランショは、フランス現代思想において、ひとつの蝶番、あるいはむしろ、二重の中心となっているように思われる。フランス現代思想というものを、ジャック・デリダとジル・ドゥルーズという二つの中心からなる楕円的領域のように想像するならば、これら二つの中心は、もともと、ブランショというひとつの中心が分裂をおこして発生してきたものだと言えるかも知れない。ブランショが――直接的にせよ間接的にせよ――〈他者〉というものについて思考した人物であるとすれば、一方で、デリダはそこから正義の原理としての〈他者の到達不可能性〉を導き出すのであり、他方で、ドゥルーズはそこに生命力の原理としての〈他者への生成〉を見い出すのである(もちろん、ミッシェル・フーコーのことも忘れてはなるまい。ただし、フーコーもまた、ドゥルーズと同様に、ブランショにむしろ〈他者への生成〉を見い出した人物だったのではないか、少なくとも私にはそう思える)。
 周知の通り、ブランショの主題のひとつに〈死〉というものがあるが、この〈死〉をめぐる議論は、おそらく、ひとつの他者論として読むことが可能であろう。ブランショにおける〈死〉とは、〈私〉という枠をはみ出るものという限りでのひとつの〈他なる〉何かが出現する契機――あるいは、この〈他なる〉何かそれ自体――なのだから。この議論とデリダ的議論との関係についてはデリダ自身に任せることにして、ここではむしろ、ドゥルーズ的議論との関わりに焦点を絞って話を進めたい。ブランショには死をめぐる次のような有名な一節がある。

 死とは現在を欠いた時間であり、私はこの現在を欠いた時間に何の関わりも持っていない。私には死に向かって身を投じることはできない。なぜなら、死においては、〈私〉が死ぬのではなく、〈私〉は死ぬ能力を失っているからだ。すなわち、死においては、〈ひと〉が死ぬのであり、〈ひと〉が死に続けるのである。

 ここでブランショが〈ひと〉(
on)と呼んでいる非人称的な存在は、まさに〈私〉という枠をはみ出るものという限りでのひとつの〈他なる〉何かであるが、しかしながら、この存在は、ハイデガーにおける「日常性のもっとも〈実体的な主体〉」すなわち「世間」としての〈ひと〉(das Man)とは何の関係もない。むしろそれは、カフカにおける創造的な存在としての「死」あるいは「非人称的なもの」のブランショ的な呼び名である。ブランショは、実際、次のようなカフカの一節を引用していた。

 死が私において書くことによって初めて、すなわち、死が私を空虚な点にすることによって初めて、あるいは、非人称的なものが顕現することによって初めて、私は書くことができるようになる。

 「死」や「非人称的なもの」や〈ひと〉といった語によって指し示されるひとつの同じ〈他なる〉何か、この〈他なる〉何かが〈私〉において〈私〉に代わって機能し始めるように組織すること、ブランショ‐カフカにおいては、それこそが「書くこと」すなわち〈創造〉の条件だとみなされるのである。ブランショが引用するリルケの叫び――「誰の死でもない死を私にくれ!」――とは、この意味で、まさに〈創造〉への意志のこの上なく激しいほとばしりだと言えるだろう。
 ところで、人間の〈創造的進化〉は、まさに「誰の死でもない死を私にくれ!」というリルケの叫びそのものがこだまするような領域だとは言えないだろうか。人間は、死へと限り無く接近していくことによって、あるいは、死を自らのうちへと限り無く取り込んでいくことによって、〈創造的進化〉を果たしてゆく動物だとは言えないだろうか。〈創造的進化〉の最先端は、実際、つねに生と死のぎりぎりの境界となっており、その意味でまた、つねに人間と〈他なる〉何かとのぎりぎりの境界ともなっている(わかりやすい例として、バイオ・テクノロジーの諸成果を思い起こされたい)。だからこそ、そこではまた、既存の〈生命観〉といったものがつねに危機に晒されており、また、そうした既存の〈生命観〉を保守するための様々な言説(一部のバイオ・エシックス的言説など)が産み出されもするのだろう。ドゥルーズの晩年のテクストに「内在――ひとつの生……」と題されたものがあるが、そこでドゥルーズが「ひとつの生」(
une vie)と呼んでいるものは、そのような既存の〈生命観〉とは全く関係のない、あるいはむしろそれに対置されもするような生命のことである。すなわち、人間の〈創造的進化〉――それでも「人間の」と形容することができるかどうかは疑問だが――の最先端(あるいは成長点)という生/死の境界が絶えず動揺させられている場、あるいは、人間と〈他なる〉何かとの境界が絶えず動揺させられている場、ドゥルーズの言う「ひとつの生」とは、そうした場で作用している力(あるいはエラン・ヴィタル)のことであり、あるいは、そうした場において看取され得る生命の存在様態のことである。ドゥルーズの言う「ひとつの生」は、しかしながら、なにもバイオ・テクノロジーに関わるだけのものでは決してなく、言語・思考・社会といったあらゆる知的領域における〈創造的進化〉の場面にも同様に関わるものであるとみなされなければならない(先にも述べたが、この点においてこそ、フーコーはドゥルーズとともに同じ〈中心〉をなしている)。そして、もしドゥルーズにとっての〈創造的進化〉が「反自然的な」〈他者への生成〉を原理とするものであるならば、それはまさに以上のような意味においてのことなのだ。こうして、逆説的にも、ブランショにおける〈死〉の肯定は、ドゥルーズにおける〈生〉の肯定へとリレーされるのである。先に引用したブランショの一節を次のようにパラフレーズすることで、この〈リレー〉を簡潔にまとめることができるかも知れない。

 死とは〈ひとつの生〉のことである。死においては〈私〉が生きるのではない。すなわち、〈ひとつの生〉においては、〈ひと〉が生きるのであり、〈ひと〉が生き続けるのである。

 さらにまた、もし、文学もまた、あるいは哲学もまた、あるいは芸術もまた、〈創造〉の名に値するような何かであるならば、この一節をさらに次のようにパラフレーズすることも許されるだろう。

 〈ひとつの生〉とは〈創造〉のことである。〈ひとつの生〉においては〈私〉が創造するのではない。すなわち、〈創造〉においては、〈ひと〉が創造するのであり、〈ひと〉が創造し続けるのである。

 〈ひと〉が〈私〉において創造するということ、すなわち、〈創造的進化〉としての〈ひとつの生〉。最後に、これについてのドゥルーズ自身による言葉を引用しておこう。

 固有名はひとつの個体を指示するものではない。個体が自分の真の名を獲得するのは、逆に、個体が、もっとも過酷な非人称化の鍛練の果てに、己を隅々まで貫く多様体に己自身を開くときなのである。固有名とは、多様体の瞬間的な把握のことなのだ。

 ひとりの文学者による「来るべき書物」への呼びかけは、こうして、ひとりの哲学者による「来るべき人民」すなわち〈マルチチュード〉への呼びかけへと接続されるのである。そして、《
Effet Blanchot》は続く……。

2003年3月2日
廣瀬純

copyright 2003 by Jun Hirose

ひろせ・じゅん:1971年東京都生まれ。現在、パリ第3大学映画視聴覚研究科博士課程に在籍。最近の論文:「A Minority Report ――「グローバル・テロリズム・ネットワークの資金基盤に対する攻撃」とネオリベラル的グローバリゼーションについて」(『現代思想』2003年3月号「テロとは何か」特集)。「ルーザーたちの映画――ドゥルーズ、アメリカ映画、そして革命」(『現代思想』2002年8月号「ドゥルーズの哲学」特集、D・ラプージャッドとの対話)。"Dorsalite: verite du cinema" (Vertigo, n. 22, octobre 2001, Paris). 主要訳書:ロベルト・デ・ガエターノ編『ドゥルーズ、映画を思考する』(共訳、勁草書房、2000年)。パオロ・ヴィルノ『マルチチュードの文法』(月曜社より刊行予定)。ペーター・サンディ『聴取』(共訳、インスクリプトより刊行予定)。


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