モーリス・ブランショの死後に行われたパリでのシンポジウムについて

郷原佳以(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程在籍)

※本稿は『図書新聞』2003年6月7日号(第2632号)から7月12日号(第2637号)まで全六回にわたり掲載された。
※転載にあたっては『図書新聞』編集部のご好意を得た。記して感謝申し上げる(月曜社編集部記)。

copyright (c) 2003 by Kai Gohara


二〇〇三年三月二十六日から二十九日にかけての四日間、米英のイラク攻撃開始から一週間が経ち戦争反対デモが盛んに行われるパリにおいて、パリ第三大学と第七大学の共同企画として、モーリス・ブランショ(一九〇七年−二〇〇三年)をめぐる国際シンポジウム「批評的物語[レシ]」が開催された。ブランショは、シンポジウムにほぼ一月先立つ二月二十日に亡くなったのだが、彼が最後に署名したのはイラク戦争反対の声明だった。

本稿では六回にわたり、このシンポジウムについて報告する。第一回では、本シンポジウムを取り巻く状況、および、全体を振り返っての概観を示すことにしたい。

意外に思われるかもしれないが、本国フランスでブランショについての大規模なシンポジウムが行われたのは、今回が初めてである。ブランショに対しては不当な沈黙が支配している、というのが、シンポジウム主催者の一人であるクリストフ・ビダン(パリ第七大学)の長年の思いだったようだ。「不当な沈黙」と述べたが、この沈黙には二種類あると言えるだろう。その一つは、文字どおり、ブランショが現代の文学者・哲学者に及ぼした影響の大きさに比して、彼についての言説が少ないことである。このことは、やはりブランショと同様に、しかし違った意味合いで「エクリチュール」をめぐって思考を展開したロラン・バルトについての言説が方々にみられるのと好対照をなしている。この理由の一つには、よく言われることだが、ブランショの読者がブランショを論じようとすると、テクストの放つ「魅惑」から抜け出ることができず、彼の駆使する逆説を自分のものにすることも相対化することもできずに繰り返してしまい、結局「論ずる」に至らないということがある。ブランショについて論ずることの困難さは、雑誌のブランショ特集企画やブランショについてのシンポジウム企画がいくつか潰えたという事実からも窺える(クリストフ・ビダン『モーリス・ブランショ、不可視のパートナー』、シャン・ヴァロン社、一九九八年を参照)。もう一つの沈黙とは、正確には、還元的に語ることによって沈黙をもたらそうとする挙措のことである。すなわち、一九三〇年代にブランショが書いた極右の政治時評に目を向けさせ、ブランショの文学論をそれとの関連で説明しようとする一部の風潮である。シンポジウムの最後に語ったデリダによれば、ブランショの著作を読まないように導こうとするこうした傾向は、フランスのジャーナリズム一般およびそれと固く結託した一部の大学制度に強くみられるものであり、それはブランショのテクストが「不安にさせる」性質をもっているからである。デリダはこう述べながら、このような状況を象徴的に表すある出来事を明かした。それによれば、ブランショの死後、ロベール・アンテルム未亡人モニック・アンテルムとともに、ブランショの全集刊行についてガリマール社に打診したところ、「アクチュアルでない」との理由で断られたというのである。筆者は、シンポジウムの最後に全集刊行計画について聞けるものと期待していたので、まったく逆の展開に驚きを禁じえなかった。なおデリダは、ブランショの最後の短篇『私の死の瞬間』を論じた『滞留』においても、こうした状況に懸念を表明していた。

同様の懸念を抱いていたビダンは、不当な沈黙を打破するためにいくつかの重要な貢献をなした。その一つは、上で引いた浩瀚な伝記『モーリス・ブランショ、不可視のパートナー』である。この書はブランショの伝記的事実および彼と関わりのあった文壇をめぐる時代背景、また彼の受容の状況について、驚くほど詳細な見取り図を与えてくれる。シンポジウムでも発表者の多くがこの著作を参照していた。さらにビダンは、シンポジウム開催の機運を醸成するため、ブランショについて論文を準備中ないし関心のある学生を所属大学を問わずに集め、二〇〇一年秋から定期的に研究会を開いてきた。小さな会ではあるが、様々な視点からのアプローチを知ることのできる有意義な研究会である。そして、ピエール・ヴィラール(パリ第三大学)との共同による今回のシンポジウム開催である。

このシンポジウムは数年間かけて入念に準備されてきたものであり、以下に示すいくつかの点でそのことが窺われた。まず、開催委員には、ジャック・デリダ、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ジャン=リュック・ナンシーといった、現代フランスの人文科学を代表する名前が並び、最終日の午後にはデリダとナンシーの「対話」という目玉企画が組まれ、ブランショの存在感を再認識させた。また、発表者をブランショの研究者に限らなかったことによって、ブランショ読解を開かれたものにすることができた。これについてはピエール・ヴィラールが開会の辞で述べた二つの方針が全うされていたと言える。すなわち、第一にブランショの模倣的な繰り返しを避けること、第二にブランショの拒絶、忘却、否定を避けることである。さらに、いうまでもないことだが、本シンポジウムがブランショの逝去とは無関係に企画されてきたものであることを確認しておきたい。開催が逝去の一月後であったために、本シンポジウムはともすると「ブランショの死を記念しての」シンポジウムとみなされがちだが、それはやや主旨に反することである。筆者は開催前、シンポジウムが過剰に追悼の雰囲気に包まれることを懸念していた。しかし蓋を開けてみればそのような心配は無用で、多くの発表者がブランショの死とは無関係に、自分の専門に立脚しながらテクストの批判的読解を提示していた。実際、筆者の記憶する限り、「ブランショの死」に触れたのは、開会の辞を「モーリス・ブランショは死んだ」で始めたビダン、デリダの悼辞に触れたユン・スン・リメとピエール・マドール、ブランショへの手紙という形を選んだマテュー・ベネゼ、「何も起こらなかったかのようにするわけにはいかない」と敢えてブランショの死を想起させたデリダ、そして、ブランショの死を記念することでブランショを聖別することのないようにしようと述べ、「歓喜」というモチーフについて語ったナンシーのみであった。

プログラムの特徴としては、ブランショの著作と芸術とのつながりを重視する主催者の立場を反映してか、二〇〇二年四月にポンピドゥー・センターで行われた小規模なブランショシンポジウムに引き続き、芸術との関係に光が当てられたことが挙げられる。具体的には、初日の「演劇、ダンス、映画、美術」セクションにおいて、演劇やダンスに関わる人々がブランショのテクストから出発して現代的な身体のあり様について考察し、タルコフスキーの『鏡』の一場面が上映される一幕もあった。美術史家ディディ=ユベルマンはデスマスク等のスライドを効果的に使用しながら、ブランショにおける「イメージ」について説得的な考察を提示した。フランシス・マルマンドは小説『アミナダブ』から音楽をめぐる一節を取り出し詳細に分析した。また、発表の合間には、ジャンヌ・バリバール等の俳優によるブランショのテクストの朗読が行われた。特に最後のセクションでは、『文学空間』所収の「読む」と、『白日の狂気』の全文が読み上げられた。三日目には「声」をテーマにしたセクションもあり、これまで影の作家というイメージに隠れて見えなくなっていた側面に注目しようという主催者の姿勢が感じられた。

以上は、本企画の評価すべき点だが、問題点もなかったわけではない。まず人選について。第一に、「国際シンポジウム」を掲げるにはいささか「国際性」に欠け、外国人発表者はイギリス人二人、「翻訳・受容」セクションに出席したスペイン人、ギリシア人各一人の四人のみであった。世界におけるブランショの受容と読解を知るには、少なくともアメリカ合衆国および日本からの発表者が必要だったと思われる。しかし実際には予算の問題があったようで、刊行予定のシンポジウム記録(ファラーゴ社)ではその点を補う可能性もあるようだ。第二に、フランス人発表者にも偏りがあり、開催大学であるパリ第三大学と第七大学の関係者の占める割合が大きすぎた。とはいえ伝え聞くところによると、ブランショを論ずることの困難にのみ拠るとは限らないが、発表依頼を辞退した研究者も少なからずいたようである。それとは別に、当日欠席が多かったことも悔やまれる。ブランショを敬愛する詩人ジャック・デュパン、ベルナール・ノエル、ブランショの政治論文編纂にも尽力し、『バタイユ伝』で知られるミシェル・シュリヤ、これまでブランショへの言及は僅かだが、それゆえに発言の期待された政治哲学者エティエンヌ・バリバール、精神分析家フェティ・ベンスラマが欠席であった。プログラムに関しては、「芸術」セクションが設けられたのに対し「哲学」セクションはなかった。ブランショの批評論文を「哲学」の枠に押し込むのは問題だが、「哲学」との対話について考察するセクションがあってもよかったかもしれない。二日目の「文学理論」セクションがある程度その役を果たしていたが十分ではなかった。また、やはり無視できない「政治」という側面に関しては、三日日に「政治と文学」セクションが設けられたが、このセクションは、従来ブランショの「政治」というと想起され議論の的となってきた三十年代の論文が取り上げられなかったという意味で予想を裏切るものだった。しかしこれは、「ベルリンの名」や『明かしえぬ共同体』等に表れる、六十年代以後のブランショにおける「具体的な抽象」としての「政治的なもの」の思考を踏まえ、「政治」をより広義に捉えたためだろう。初期のブランショに関してはむしろ、シンポジウム全体を通して、延べ三十七の発表のうち四つが四十年代のジャン・ポーランとの関係をめぐるものであったことに驚かされた。

次回からは、個々の研究発表について日を追って報告する。


一日目、午前中のテーマは「詩と詩人たち」。ブランショが論じた詩人といえば、まず誰をおいてもマラルメであるのは疑問の余地がないとしても、他にもリルケ、ヘルダーリン、ツェラン、シャール、ランボー、シュペルヴィエルといった名が次々と思い浮かぶ。そしてこのように挙げてみると、詩をめぐる考察が、ブランショの数多い評論の中でも彼の文学論の根幹を成す部分であったことに気づかされる。しかし、このセクションで取り上げられたのはアルトー、マラルメ、ミショーの三人のみで、多くの重要な名が欠けている上に、フランスの詩人だけになってしまったのが残念であった。

このセクションは、それぞれの詩人の専門家が、ブランショの詩人論について論ずるという形式を取っていた。初めは、エヴリン・グロスマン(パリ第七大学)による、ブランショのアルトー論についての発表。ブランショには二篇のアルトー論があるが、本発表で主に取り上げられたのは、『来るべき書物』所収の「アルトー」(一九五六年)であった。グロスマンは、『来るべき書物』収録に際し『NRF』誌発表版から削除された冒頭部と物語『最後の人』(一九五七年)との類似を指摘し、ブランショとアルトーの「対話」が遠回しな仕方で続いていたことを示した。二人に共通していたのは、要約すれば、「思考すること」と「苦しむこと」が同じものとして経験されていたということである。それは、「思考すること」が彼らにおいては、フーコーが「外の思考」と呼んだ主体なき思考の経験としてあったからである。しかし、フーコーの「外の思考」を援用してアルトーとブランショの思考の経験をつなぐだけならば、さして新味のある論点でもなかっただろう。本発表が興味深いものとなったのは、アルトーにおいてもブランショにおいても、思考することが根本的に身体の問題であることが示されたからである。『冥界の臍』や『神経の秤』といった作品の表題からも分かるように、アルトーの思索は、いわば、身体のどこに重心を置き、いかに均衡を取るかという問いをめぐっていたのだが、ブランショからもその問いを取り出したのは慧眼である。本発表では、ブランショにおける思考は、耐えがたい重みでのしかかってくると同時に重力なき軽いものであることが示されたが、「重さ」と表裏一体になったある種の「軽さ」とは、図らずも三日目にドミニク・ラバテがブランショの物語に関して展開した視点であり、両発表は有機的なつながりを見せていた。身体性をめぐる本発表からは、「健康のために書く」というミショーの逆説的な言葉を思い出さずにはいられなかった。

そのミショーとブランショとの親近性について論じたのはピエール・ヴィラールである。ミショーもブランショもいわゆるフロイトの「不気味なもの」への親和性が強いのだが、彼らの経験する外異性は極度であるために、ファンタスティックとか魔術的というカテゴリーそのものが彼らにあっては転位されてしまうことが示された。

ポール・ド・マンは一九六六年の論文の中で、ブランショが『イジチュール』に読み込む「死の不可能性」は、厳密にはマラルメの詩からは読みえないと批判したが、ブランショのマラルメ論をめぐるミシェル・サンドラ(パリ第七大学)の発表は、基本的にはこの批判の延長線上にあるもので、ブランショのマラルメ論が恣意性を帯びているという指摘だった。こうした指摘は、マラルメ研究をブランショの呪縛から解き放つという意味では有効性をもつだろう。

午後のテーマは「演劇、ダンス、映画、美術」。まず舞台監督・俳優ピエール=アントワーヌ・ヴィルメヌおよび舞踊作家ダニエル・ドベルによる専門的観点からの発表があり、続けて映画評論家レイモン・ベルールと美術史家ディディ=ユベルマンが「イメージ」をテーマに発表した。「イメージ」セクションの二発表は、他の思想家の理論と関連づけながらブランショにおける「イメージ」の重要性を十全に示し、聴き応えがあった。ここでは、非常に不充分ではあるが、紙数の都合上、見事な議論展開を見せたディディ=ユベルマンの発表のみを簡単に要約する。

本発表では、物語『死の宣告』やルイ=ルネ・デ・フォレ論『他処から来た声』からも適切な箇所が抜き出されたが、主として論じられたのは、一九五一年から一九五三年に発表されたイメージ論である。ブランショはイメージ論「想像的なものの二つの解釈」等の中で「遺骸」を「イメージ」の範型としているのだが、そこからディディ=ユベルマンは、「遺骸とは何か」、そして、「遺骸としてのイメージはいかなる点において哲学的規範から逃れるのか」という問いを立てた。第一の問いへの答えは、要点だけ述べれば、遺骸とはデスマスクのように硬化するが、同時に絶えまなく転位し続けるものだということである。第二の問いの「哲学的規範」とは、カント、ハイデガーにおける「統一」を引き出すものとしての構想力を指しており、ここでは、ハイデガーの『カントと形而上学の問題』第二十節に現れるデスマスクの例に着目したナンシーの最新刊『イメージの奥底で』(二〇〇三年)が参照された。そして、ブランショの「イメージ」は、第一に絶えまなく永遠に繰り返される流動的なものである点において、第二に予見不可能なものである点において、「統一」的イメージを根底から崩すものであることが示された。

次回は二日目について報告する。


二日目の午前中は「読者」と「翻訳・受容」の二部に分かれていた。第一部では、『文学空間』所収の「読む」のようなブランショの読書理論が分析されたわけではなく、読者としてのブランショがテーマとなっていた。ブランショは、いってみれば書物なしには想像できないような存在であり、「読者としてのブランショ」などまるで同語反復と感じられるほどだが、ではその読解の様態はいかなるものであり、またどのように提示されたのか、それが問われたといえる。三つの発表が行われ、ブランショによるロートレアモン、ニーチェ、リルケ、フローベールの読解が問題となった。ここでは、ロートレアモン論の特徴を明瞭に証示したピエール・パシェ(パリ第七大学)の発表を報告する。なお、ニーチェおよびリルケとの関係について発表したのはステファン・ミショー(パリ第三大学)、フローベールとの関係について発表したのはマリー・ドゥピュセ(パリ第七大学)である。

パシェが取り上げたのは『ロートレアモンとサド』(一九四九年)所収「ロートレアモンの経験」である。パシェによれば、この論文は二つの点において特異である。第一に、前日マラルメ論に関して批判されたようにブランショは対象テクストの一部のみを論ずることが多いのだが、この論文では『マルドロールの歌』のほぼ全文が引用されているばかりか、構成、登場人物の由来、出版事情等、テクストの「あらゆる現実」が分析されている。第二に、『マルドロール』を論ずることの困難はシュルレアリスムによる顕揚によって助長されたのだが、ブランショはシュルレアリスムのように何らかの概念を引き出そうとすることなくテクストの謎に取り組み、テクストの「動き」を忠実に再構成しようとした。そしてそれは、動物等のモチーフの生起を分類整理してなされるテーマ論的読解に対し、あらゆるテーマを同じ平面において分析することにより可能となっている。ブランショが寄り添うテクストの「動き」とは、作品が書かれることによって創造者が発明されてゆくダイナミックな過程であり、表題の「ロートレアモンの経験」はその経験を指している。パシェはまた、ブランショの抑制の効いた簡素な文体はロートレアモンの奔放さと相容れないようだが、しかしテクストの現実を捉える「大胆さ」を備えているのだと論じた。

第二部は、五人のブランショの翻訳紹介者たちが主催者の提示した質問に答えるという形で進められた。質問は(一)翻訳、(二)受容の経緯、(三)アクチュアリティについて尋ねるもので、(一)はヴァンゲリス・ビトソリス(ギリシア)、(二)はアレヘンドロ・デル・リオ(スペイン)、レスリー・ヒル(イギリス)、ステファン・ミショー(ドイツ)、(三)はマイケル・ホランド(イギリス)が答えた。(一)では「ベルリンの名」と『私の死の瞬間』を訳した経験から翻訳の困難が語られた。強調されたのは、必ずしも哲学論文として書かれていない文章の中に現れる哲学的な語をどう訳すかという、確かにブランショ翻訳に付き纏うにせよ一般化の可能な問題だった。(二)ではレスリー・ヒルがアメリカ合衆国での五十年代から現在までの受容史を要領よく五段階にまとめ、その時代の翻訳状況やフランス思想の輸入状況に応じて受容のされ方が変化してきたことを示した。(三)ではホランドが英語圏でのブランショとデリダの決定的な重要性を示唆した上で、イギリスでの受容を紹介し、英訳は揃ってきているとはいえフランス語と英語の意味の差異は無視できず、批評論文の翻訳において原文との隔たりは否めないと懸念を表した。本稿第一回で述べたように、予算の問題で日本からの出席者はなかったが、幸いホランドが日本での受容に触れ、日本では多くの著作が翻訳されているだけでなく「世界文学」叢書にも入っていると述べた。『謎の男トマ』、『アミナダブ』、「バタイユ論集成」等々の収められた『筑摩世界文学大系八二 ベケット・ブランショ』のことだが、プレイアード叢書に入る見込みのないフランスでの状況を考えれば、これは確かに特筆すべきであり、日本のブランショ読者は編者や翻訳者の英断に負うところが大きい。

午後のテーマは「文学理論」で、四つの発表が行われた。そのうちミシェル・コロ(パリ第三大学)、ドミニク・コンブ(パリ第三大学)、ジェローム・ロジェ(ボルドー大学)の発表は、重点の置き方は違うものの、ジャン・ポーランの文学評論集『タルブの花あるいは文学における恐怖政治』(一九四一年)の書評として書かれた『いかにして文学は可能か』(一九四二年)、および、コジェーヴのヘーゲル講義に大きな示唆を受けて書かれた言語論「文学と死への権利」(一九四八年)を論じるものだった。議論が初期ブランショに集中しただけでなく、ブランショの「文学理論」の精髄ともいえるカフカ論や「語りの声」が論じられなかったのは期待外れだった。ミシェル・コロは、「文学と死への権利」でのヘーゲルを通じたマラルメ解釈は詩的言語の完全な自律性を主張しており、その点でブランショはポンジュと異なると論じた。修辞学の専門家ドミニク・コンブは、四十年代以降のフランスの思想状況を整理しつつ、ブランショの批評論文の「否定的修辞」について論じた。ジェローム・ロジェは現代の読書理論を参照しつつ、ポーランの著作とブランショの批評の類稀な関係について論じた。三氏に対しより文学的な読解を提示したと思われるのは、ユン・スン・リメ(ブランショ論で博士号取得)の発表「死、不可能な隠喩」であり、彼女は「隠喩の自己破壊」をめぐるデリダの隠喩論(「白けた神話」)を援用しつつ、ブランショが隠喩の位置そのものを問いに付したことを示した。主として『終わりなき対話』のテクストに寄り添った分析から、ブランショの批評論文に頻出する空間の隠喩の逆転した構造が示され、刺激的であった。

次回はラクー=ラバルトを除く三日目の発表について報告する。


三日目、午前中のテーマは「政治と文学」。本稿第一回で述べたように、ブランショの三十年代の政治論考を直接扱った発表はなく、司会者も初めにそのことを予告した。紙数の都合上、ともに「供犠」の問いに触れていた二つの発表のみ紹介するが、ブランショとラカンの道程の共通性を明らかにしたクリストフ・アルスベルグ(ガン高等学校)、「ニヒリズム」をめぐるブランショとハイデガーの対決を論じたレスリー・ヒル(ウォーウィック大学)の発表も聴き応えがあった。その他の発表者はトマ・レニエ(ジャーナリスト)、ダニエル・ヴィレム(作家)。

エレーヌ・メルラン(パリ第三大学)は、十七世紀専門家かつフェミニストの立場から、デリダ『友愛のポリティックス』の延長線上で、ブランショの「友愛」概念における女性の位置の欠如について論じた。基本にあるのはブランショを読む際に彼女自身が感じる「居心地の悪さ」とのことであったが、ブランショのテクストを多数読み込んでおり、単なる印象論ではなかった。まず、ブランショにおける重要な概念である「対話」が「二人の男性」のそれと想定されていることを指摘、また二篇のデュラス論から女性性の「中性化」を抽出、次に様々な論考から、女性がキリスト教的な生贄と同一視されていると論じた。続くカミュ論(『終わりなき対話』所収「地獄についての考察」)批判が論証の山場であったが、ここで彼女は、『正義の人々』でカリャーエフが大公の「妻と子供達」を見たために大公暗殺に失敗する場面(「ぼくにはできない」)についてのブランショの解釈――妻子の「イノセンス」は大公の赤裸の顔に他ならず、その裸性の開示の瞬間が言語の秘密だ――を批判した。確かにブランショの場合この「無力」から共同体が開かれるのであり、彼のフィクションを考えても、女性が消失しあるいは死ぬ一方で、いわば「無力の主体」となって残るのはつねに男性達である。この点では説得力があったが、「文学と死への権利」の一節をめぐる解釈では文脈を考慮に入れておらず、いささか牽強付会に思われた。また、個人的には、上記のような批判を認めた上で、ブランショにおける「女性」にはそれ以上の何かがあるのではないかと考える。

ジゼル・ベルクマン(パリ第七大学)は、『災厄のエクリチュール』(一九八〇年)を中心に、ドゥルーズ、レヴィナス、デリダ等々のテクストを縦横に横断しながら、ユダヤ教と供犠という重い主題をめぐって見事な論証を披瀝した。彼女の発表は、神話の問いをめぐるラクー=ラバルトの考察やナンシーの「途絶した神話」(『無為の共同体』所収)と響き合っていたが、本シンポジウムの中でこの後、この二人の発表が彼女の発表とあらためて響き合うことになる。彼女は最初に、「ブランショは供犠を災厄において消し去ったのだろうか」という問いを立て、様々なテクストから最終的に、ブランショは供犠を宙づりにしたのであって、消し去ってはいないことを示した。少し具体的にみてみよう。本発表の出発点にあるのは、第一に、ヘーゲルとの対決においてブランショが記した、「ユダヤ教は唯一、媒介のない思想である」という一節、第二に、ブランショのテクストに繰り返し現れる、アブラハムの供犠への言及である。『災厄のエクリチュール』からは、ブランショがユダヤ教を、神話に終止符を打つ思想と見なしていることが読み取れる。しかし、そこでブランショは、アブラハムの中断された供犠――そこにはある種の神話が残存している――を、そのまま宙づりにしているのではないか。彼女はこの問いに関して、『文学空間』所収のカフカ論でカフカがアブラハムと比べられている箇所、および、物語『望みのときに』(一九五一年)の中でアブラハムの供犠が想起される場面、また、『明かしえぬ共同体』のアセファルをめぐる注記や、『災厄のエクリチュール』所収の諸テクストの分析から、ブランショにおいて供犠、つまり媒介の瞬間そのものが、ある種の神話的なものとして固定され保持されているという結論を導き出した。さらに、やはりアブラハムとバートルビー(メルヴィルの短篇において、「できれば僕はしたくないのですが」と言い続ける代書人)の形象を結びつけて論じるデリダ(『死を与える』)が、以上の点をブランショと共有しているのではないかという大胆な仮説を提出した。

午後のテーマは「声」。ここではドミニク・ラバテ(ボルドー大学)の発表を報告する。その他の発表者はフランシス・マルマンド(パリ第七大学)、マテュー・ベネゼ(作家)、フィリップ・ラクー=ラバルト(哲学者)、ジャック・ルカルム(パリ第三大学)、ジョナタン・ドゥジュネーヴ(パリ第七大学)。

ラバテの発表の主題は、「重々しい」と見なされがちなブランショの作品に「軽さ」を見出し、「軽さと共にとどまる」ことにあった。彼はまず、『私の死の瞬間』および『事後に』(一九八三年)から、主題の「重さ」が五十年を経て「軽さ」に転換された上で公刊されるという共通の経緯を抽出し、そこから、「重さ」と「軽さ」の二つの時間の間での決定不可能な「滞留」が「文学」を成立させているという見解を提示。その上で、「重さと軽さとの分有線」をめぐって「カフカと文学」(一九四九年)を読解した。最重要の文学論であるこのカフカ論の正鵠を射た読解から、「文学」が重々しい滞在ではなく、いわば場を持たない軽やかなダンスであることが示された。ラバテの発表は二日目の「文学理論」セクションの不足を補って余りあるものであり、一日目のマラルメ論批判への応答にもなっており、筆者は、「軽さ」はブランショの文学論を支える本質的要素であるとの思いを強くした。

次回はラクー=ラバルトの発表および四日目の午前中の報告をする。


今回は三日目のラクー=ラバルトの発表および四日目の午前中の報告をする。

ラクー=ラバルトは、『災厄のエクリチュール』に再録されたテクスト「一つの原光景」をめぐる発表を行い、「原光景」を通して「神話」の問いを扱った。とはいえ発表の主眼はこのテクスト自体の註釈にはなく、後のテクストとの関連において、ブランショがこのテクストに対してとった姿勢を見定めることにあった。以下、このテクストをめぐる事情を簡単に振り返りながら、ラクー=ラバルトの考察を追うことにする。「一つの原光景」は、一九七六年春、ラクー=ラバルトが編集を務める雑誌に寄稿された一ページに満たない断章である。物語の形式を取ってはいるものの、幼年時代の経験が語られており、明らかに自伝的かつ遺言的なテクストである。ラクー=ラバルトによれば、この初出テクストと再録テクストの間には、次の二つの差異がある。第一に、表題「一つの原光景」が「(一つの原光景(?))」となったこと、第二に、文中の言葉「この原光景」から「原」が取り除かれたことである。ここからラクー=ラバルトは、ブランショは再録時にこのテクスト全体を括弧入れし、「原初性」のモチーフを揚棄しているのではないかとの仮説を提示した。ブランショが同書の後ろの方でこの断章を自己註釈していることがこの仮説の根拠となっている。こうした観点に立ち、ラクー=ラバルトは次に、このテクストと密接な関わりのある、やはり同書に収められたテクスト「子どもが殺される」(一九七六年)を読解した。このテクストは精神分析家セルジュ・ルクレールの著書をきっかけに書かれたものであるが、ラクー=ラバルトはルクレールやラカンのみならず、ブランショ自身が触れているウィニコットの児童分析理論にも注目し、ウィニコットのいう「未だ経験されない出来事への怖れ」としての「根源的な終末の苦悶」が、「『私』は生まれている前に死ぬ」と記すブランショの「経験されざる経験」(ともに『災厄のエクリチュール』)につながるものであることを示した。ここから導き出された結論は以下の二点である。第一に、記憶不可能な過去においてつねにすでに生じている終末の苦悶は「原初的」ではありえず、それゆえ「原光景」とはなりえない、第二に、しかしその「内的な死」は、フィクションを可能にする論理そのものである。ブランショとともに、「書くことは神話的な名の消去とともに始める」と考えるラクー=ラバルトによれば、ブランショは、『文学空間』ではオルフェウスの冥府下りの神話に訴えたが、『災厄のエクリチュール』においては、以上のような揚棄の過程を経て、「神話の途絶」(ナンシー)としての「脱神話論化」を行った。したがってラクー=ラバルトは、本発表ではあまり触れられなかったが、『災厄のエクリチュール』所収のナルシス論を、『文学空間』所収の「オルフェウスの注視」とは異なる位相にあるものと捉えているようだ。このナルシス論についても今後考察が展開されることを期待したい。本発表は、「神話の途絶」がいかになされるかについての具体的な検証であったといえるだろう。

最終日午前中のテーマは「思考の物語、物語の思考」であり、四つの発表すべてがフィクション分析を中心とするものであった。クリストフ・ビダン(パリ第七大学)が『謎の男トマ』第一版、ピエール・マドール(作家)が『死の宣告』、ジャン=パトリス・クルトワ(パリ第七大学)が『私に連れ添わなかった者』、マイケル・ホランド(オックスフォード大学)が『望みのときに』と、別々の物語についていずれも真摯な読解を提示し、ブランショ研究でこれまで手薄だった部分が一挙に補われた感があった。ここではビダンとホランドの発表を簡単に報告する。

ブランショの第一長篇『謎の男トマ』第一版(一九四一年、絶版。大幅に縮減された第二版が一九五〇年に刊行された)は、刊行当時、ティエリー・モーニエによって、「ロートレアモンとジロドゥーに非常によく似ている」と評された。ビダンの発表は、『謎の男トマ』第一版とジロドゥーの諸著作を、二人の様々なテクストや受容状況についての精確な把握に基づいて比較分析し、数々の類似とそこから現れる差異とを明らかにするという堅実な研究であった。ビダンは、『謎の男トマ』の空間は、当時の絵画やダンスが構築した空間を視野に入れて読まれる必要があると述べて、発表を締め括った。

『望みのときに』(一九五一年)冒頭の段落には次のような一文がある。「時間は過ぎていたが、しかしその時間は過ぎ去ったわけではない」。この物語の表題「望みの時」がニーチェの『ツァラトゥストラ』に現れる「正しき時に死ね」という言葉に由来することはつとに指摘されてきたが、ホランドはそこにもう一本の線を引いた。ハイデガーの『思惟とは何の謂いか』である。とはいえ、ブランショがハイデガーの講義を参照して物語を書いたという意味ではない。出版時期から考えてもそれはおそらくありえないにもかかわらず、ブランショの物語とハイデガーの講義は、ほぼ同時期に、ニーチェにおける時間概念の問い直しを行っていたというのである。この点を指摘した後、ホランドは、ブランショのニーチェ論を引きながら、「死の彼方への跳躍」によっていつのまにか「望みの時」を超え、「すでに死んでいるという夢想」が物語の法を成すのだとして、前日のラクー=ラバルトの発表を思い出させる議論を行った。上記のハイデガーとの関係の指摘に加え、『望みのときに』の一節がヴァージニア・ウルフ『波』の一節をほぼそのまま引き継いだものであるとの指摘にも驚かされた。

次回は、最終日午後に行われたデリダとナンシーの「対話」セクションについて報告する。


最終日午後は、デリダとナンシーという大物の「対話」が聴けるとあって、大勢の聴衆が詰めかけた。二百人収容の会場は満席で、立ち見の人も数十人いた。

このセクションは「対話」と名づけられてはいたが、デリダとナンシーが聴衆の前で語り合ったわけではなく、大よそ次のように進められた。まずデリダが、一時間半ほど、完璧に準備されたブランショ論を読み上げ、つづいてナンシーが、デリダの発表に「共鳴する」という形で、一時間ほど即興で語った。その後、二人の間で僅かにやりとりがあった後、質疑応答となり、その中でデリダが、本稿第一回で述べたように、ブランショ全集計画のガリマール社による拒否を明かした。「神話」の問いをめぐるナンシーの発表は、「脱神話論化」をめぐって発表したラクー=ラバルトへの応答という要素が強かったとはいえ、以下に示すように、潜在的には、ハイデガーの「摂理[Walten]」〔デリダによればこの語は翻訳不可能である〕にまつわるデリダの発表と「共鳴」していた。二人の議論をここに再現することはもとより不可能であるが、紙数の許す限りで、簡単な要約を試みる。

デリダの発表は二部構成となっており、第一部は、本シンポジウムで幾度となく取り上げられた「文学と死への権利」の読解であった。ルディネスコとの対談集『来たるべき世界のために』(二〇〇一年)第六章「革命の精神」で示唆されたことの展開だったといえる。デリダは数年前から「死刑」の問題を論じて始めているのだが、ここでは、ブランショの論文を「死刑」問題との関連において読むという新たな論点を提出した。この論文が発表された一九四八年は、ヴィクトル・ユゴーが死刑廃止を唱え、政治犯の死刑が廃止されてからちょうど一世紀後であり、かつまた、「世界人権宣言」が採択された年でもあるという象徴的な事実を想起させながら、デリダは、「文学」と「革命」を同一視するブランショの議論は、ユゴーの議論の正反対であると同時に、過去のすべての哲学的な死刑賛成論――とりわけカントのそれ――の核心を内包していると論じた。

第二部は、ブランショ逝去直後のセミネールと同じ内容であり、セミネールで扱われていた「火葬/埋葬」のテーマを踏まえたものではあったが、やはり比類のない読解で聴衆を圧倒した。デリダはここで、『最後に語る者』、『災厄のエクリチュール』、『謎の男トマ』第一版等々、驚くことにほぼすべてのブランショの著作を自在に横断しつつ、ブランショにおける「幻想の論理」を論証し、最終的に、ブランショにおける「中性的なもの」という概念が、ハイデガーにおける存在論的差異を生み出すある種の根源的な暴力としての「摂理[Walten]」と同じ位相にあるという興味深い結論を引き出した。

「幻想の論理」の「幻想」とは、ブランショのフィクションや批評論文に読み取れる「生きたまま埋葬される幻想」のことであり、ここから、通常の意味でのロゴス(理性、言葉、集合)に抵抗する「幻想の論理」を導き出してくるデリダの議論は、「私は死んでいる」という「内的な死」がフィクションの法であると同時に「あらゆる論理」の基礎を成すのだと論じたラクー=ラバルトやホランドの議論と通底していたといえる。というのもデリダは、「幻想」とは現実と内面との対立の枠に収まるものではない以上、「幻想の論理」とは論理としてはありえないものだが、しかしその「論理」自体が「幻想」に他ならないのではないか、と論じるからである。こうしてデリダは、『望みのときに』に現れる「出来事の亡霊」という言葉に注目しつつ、ロゴスを超えたロゴスを思考することの必要性を論じた。ロゴスについてのこうした思考は、「コギトと狂気の歴史」(一九六三年、『エクリチュールと差異』所収)などにみられるように、まさにデリダが初期から実践している思考である。

つづくナンシーは、『無為の共同体』(新版一九九九年)や『ナチ神話』(一九九一年)などの「神話」をめぐる考察の延長線上で、「脱神話論化」という語の帯びるユダヤ=キリスト教的ニュアンスに注意を向けつつ、神話の二重性、つまり、神話(ミュトス)がそれ自体「脱神話論化」するものであることを指摘した。

彼はまず、ブランショにおける「歓喜」というモチーフについて語り、それが、生も死も「自己同一性」である限りで、その両方からの解放であることを示した。つづけて、それにもかかわわらず何らかの「自己触発」がなければ、「『私は語る』というほとんど無に等しいけれども存在する次元の喜ばしい肯定」はありえないとして、ロゴスならぬミュトスへの信仰のようなものを肯定し、最後にそれを「同意=共感情」と名づけ、彼が練り上げつづけている「共同体」の問題系へと引き付けた。

ナンシーの議論のこうした究極の慎重さは、まさにブランショの議論にみられる慎重さであり、「脱神話論化」を免れえた者としてブランショ自身を崇めてしまうことなくブランショへの忠実さを示したという意味で、彼の発表は本質的なオマージュであった。

ジゼル・ベルクマン、ラクー=ラバルト、デリダ、ナンシーの発表は、ブランショにおける「神話の途絶」の問いをめぐる、それぞれに異なる観点からのアプローチだったといえる。シンポジウムが終わりを迎えた今、この問いに向き合う私たちに要請されているのは、単にブランショを断罪することでもなく、ましてや彼を祀り上げることでもない。そうではなく、いわばブランショの思考の「覚醒」それ自体を引き継ぐこと、その意味でブランショに忠実であることだ。そのようにしてのみ私たちは、ナンシーの言葉を借りれば、コロック〔話し合い=シンポジウム〕から「対話=保持[entretien]」へと移行し、ブランショとの「終わりなき対話」を続けることができるだろう。

本シンポジウムの全記録は、ファラーゴ社より、今秋刊行の予定である。


ブランショ追悼ページトップ