ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト

第九回

『化学教程』

第一部
第一編 物体の諸要素とそれらの構成について

第一章 物質の原質について(続き)

24 ところで、ある物質の中でまったく水でも空気でもないものはどのようなものであれそれは必然的に土だということになる。そしてベッヒャーに従えば、空気は物体の混合物の中に原質としては入り込むことは決してなく、空気はむしろ物体の〔絶対的〕体積の中にただ付帯的にのみ入り込むということなので、この事実から例えば次のことが導き出せる。すなわち金属や石はその構成のうちにまったく水を持たないがゆえに、ただ土からのみ形成される、と。だが、これほど多様な混合物は果たして一種類の同じ土のみから成り立っているのであろうか。つまりこれら混合物の多様性はその原質の多様性を示しているのではないだろうか。金とダイヤモンド、大理石と銅はあまりにも異なる本性を持つので、もしこれらの一つひとつがただ一つの土から成り立っているとするならばこの土は上に挙げた例の中では同じものではありえないということが先ず分かる。また、そもそも金属は一体どのような変化métamorphosesを受けやすいのであろうか。[A:15]化学は金属を展性、脆性、高密度、多孔質、流動性、不発揮性、発揮性等々といった性質を次々持たせ、重くも、軽くも、また硬質にもする。では、〔物体の〕本質的部分の多様性からでないとしたら、どこからこれほどの変質altérationsが生じるのだろうか。また、もし金属が単純な物体からなるならば、化学者の意のままにこれほどまでに異なる形態を持って代わるがわる現れるなどということができるのだろうか。[F:23]とするならば、化学者は金属の混合物の中に複数種類の土を含ませる必要がある。

25 では、当の土〔の種類〕はどれくらい存在し、それぞれどういった違いがあるのだろうか。ベッヒャーは、これほどの難問を解決するために、確固とした実験と熟達したその実践だけに頼ることを求めた。そうすれば三つの異なる土があることを確認することができる、とベッヒャーは言っている。第一の土は他の二つの土の基礎となる。この第一の土は石とアルカリのなかに豊富に存在する。これがガラス化土である。第二の土は、可燃性で火と顔料に固有の原質である。この土はシュタールがフロギストンないし色素土と呼んだものであり、それは硝石に多量に含まれている。第三の土は石や金属に形〔という性質〕を与えるものである。この土によってこそ、それらは石という状態、金属という状態を獲得するのである。これこそベッヒャーがスイギン土と名付けたものであり、彼はこれをまさに海塩sel marinにのみ存するものとしたのである。

26 土に関わる三つの原質一つひとつの存在はこの『化学教程』が進むに従って後々充分に証明されるだろう。というのも、これら三原質の存在に関する議論は予備知識を必要とするからである。だがこの時点この知識を詳らかにすべきではない。それゆえに、いまはベッヒャー自身の説に則して、三原質に関する正確な概念を示すに留めよう。

27 石とは、土に関わる三つの原質のうちの第一のものであるガラス化土がもっとも際立っていることが分かる物体である。石は三つの一般的な部類classesに分けることができる。第一の部類は、火によっては決して変質しえない石である。第二の部類は、火によって石灰に変えられた石である。[A:16]第三の部類は、火によってガラス化する石である。この最後の部類のうちには、鉱物学者たちが不適切にも石灰ないし石英と呼んだ特筆すべき種類の石がある。まさにこの種類の石こそガラス化土なのである。この土は金属や鉱物の中にある他の二つの原質〔すなわちフロギストンとスイギン土〕の基盤ないし基体hypostaseになるものである。このガラス化土は両者が生成するための母体としての機能を果たすだけでなく、ガラス化土はさらに両者の混合物の中に構成要素として入り込む。ガラス化土のこのような働きのゆえに、両原質はその可融性をガラス化土から受け取り、またこのガラス化土のために、諸々の鉱物が火にあてられることによってガラスの粘性を得るのが分かる。これは〔ガラス化土を含む〕鉱物が化学的操作によってガラス化土以外の原質を奪われるからである。このことについては、鉱石を扱う際にきちんと説明しよう。もっとも、ガラス化土が常に石の形をしていると考えてはならない。私たちが証明するように石というものは混合物に属するものである。このことから、ガラス化土は〔混合物としての〕石の中では必ず何かと結びついたかたちで存在し、石の中に石化作用原質principe lapidifiqueとしてのみ存在するということが分かる。また反対に、ガラス化土はしばしば土、水の形、そして気体の形ですらも見られる。ガラス化土が他の二つの原質から形成されたまた別の気体と出会うと、これらの気体の多様な組み合わせに則しつつ、金属的ないし鉱物的粘性の状態にその気体を固定し凝固させる。そしてベッヒャーの説くところによれば、ヘルメス・トリスメギストスが以下の一文で暗示したことはガラス化作用原質のこの作用であった。すなわち「風ガ〔気体化したこの原質を〕子宮ヘトモタラシタ。コノ原質ノ母ハ土デアル。土ヘト変化スルナラバ、ソノ力ハ完成サレルVentus in utero portavit, mater ejus terra est, potentia ejus perfecta est, si in terram mutetur」という一文である(1)。〔このように〕ベッヒャーはヘルメス・トリスメギストスに非常に忠実であり、それゆえに彼にはヘルメス・トリスメギストスの大きな影響が見られるのである。

(1)『ルソー年報』版『化学教程』の校訂者ゴティエは、このヘルメス・トリスメギストスからの引用がベッヒャーの『地下の自然学』からとられたものであると解している(A: 16)。実際にベッヒャーの同著作にはヘルメス・トリスメギストスの言葉とされるこの一文が見出せる(Becher, Johann Joachim, Physica Subterranea, Lipsiæ, Joh. Ludov. Gleditschium, 1703, lib. I, Sect. III, Cap. II, p. 128)。ヘルメス・トリスメギストスとは伝説上の錬金術師であり、ヘルメス文書や失われた『エメラルド・タブレット』の著者とされていた。ヘルメス・トリスメギストスの言葉とされるこの一文は『エメラルド・タブレット』に由来するが、アラビア語訳を経て12世紀のセビリアのヨハネによるラテン語訳(『秘中の秘Secretum secretorum』)を通じヨーロッパ世界へともたらされた。このラテン語訳は近世以降非常に多く読まれ、ベッヒャーもこのラテン語訳に基づいて上記の一文を書いたと考えられる。しかし、ベッヒャーは彼自身の鉱物生成の理論にあわせて『秘中の秘』の一文を書き換えている。後者の著作では万物の源である「一なるものuna res」が太陽を父とし月を母としさらに大地を乳母として成立したことが語られている。これに対してベッヒャーは「一なるもの」やそれの成立過程にはいっさい触れず、ヘルメス・トリスメギストスの言葉を突然引用する。そのため動詞「もたらすportare」の目的語はなく、また指示形容詞(ejus)が何を指しているのかも不明である。当邦訳では、ルソーのテクストの文脈にあわせてベッヒャーのラテン語を補いつつ翻訳した。

28 もっとも、ベッヒャーは鉱物界にのみ彼の言うガラス化土を設定したわけではない。彼は植物の灰の中にガラス化土とまったく同様の土を見出した。このガラス化土と同様の土は、〔鉱物界に見られる〕もう一方のガラス化土の可融性を促進する。さらにベッヒャーは動物の中に驚くべき第三の土を見出した。これら動植物が可融性を有するガラス化土を含んでおり、その土を使ってもっとも美しい磁器製品に相応しい壺を作ることができるだろうとベッヒャーは確証している。ベッヒャーはある〔秘技的〕手法を試しているが、この手法は依然として謎めいたものである。この手法によって、彼は人間というものがガラスであり、そして人間はすべての動物と同様にガラスに戻りうるということを認めざるをえないような実験をした。この手法を試したベッヒャーは、次の二点についてたいそう結構な考察を行った。第一点は、古代の人びとが死体を焚葬するためないし保存するためにした骨折りについてである。第二点は、気味の悪い忌むべき死体〔という容れ物〕を、清潔でまばゆい壷、透明な美しい壷へとただちに変化させて、彼らの先祖の遺骸を保存しうる方法についてである。[F:25]ちなみにこの壷は植物から得られるガラスの特徴をなす緑色ではなく、動物界が〔かつて人間であった〕水仙〔ナルキッソス〕に与えたその淡彩色に由来する乳白色〔肌色〕を持つものである(1)。自分がガラスからできており、近づく者にどうか割らぬよう気をつけてくれと大声で懇願する狂人についてジョン・ロックは語っているのだが、この狂人が神秘的な書物か何かに彼の夢想を書き留めていなかったというのは何とも残念なことである(2)。こういった書物は化学者にとっての宝であり、彼らはその書物にベッヒャーの体系のすべてを必ず見つけていたに違いない。〔肉体とガラスの関係をめぐる今しがた紹介した〕これらの考えは疑いもなく魅力的なものである。そもそも〔鉱物界に属するものを他の二つの界に持ち込むというベッヒャーの〕類比がそれなりに自然なもののように見えるのだ。しかしながら、小壷に関するベッヒャーの実験について言えば、この壷は動物の灰から形成されているのだから、どのような火であってもガラス化しえないものであるし、この点のみならずベッヒャーがその秘技を語る際にそのすべてを詳らかにしていないように見えるという点で、彼の秘技とやらは完全には信じきれるものではない、と私は言わざるをえない。ベッヒャーが言うには、罪深いおしゃべりと不敬の念に引きずられて動物的土〔動物界に属する土〕に関する秘技を公にする気はないし、この手法を出版する気もまったくない、ということである。というのも人びとはこの手法を様々に濫用できるからである。〔私に言わせれば〕それは一体どのような濫用なのか分かりかねる。ところで、こういったベッヒャーの語り口には錬金術師たちが好みそうな言葉遣いが見られる。彼らがその崇高な仕事について謎めいた仕方で語るのを聞くと、〔むしろ〕神的なものが〔これについて語る〕彼らの技の恩恵に浴しているように思える。聖なる賢者たちの管轄下にないものはすべて卑俗なるものであるというわけである。彼ら自身を除いて、何ぴとも彼らの神聖な秘技に触れさせてやるわけにはいかないというわけである。これすなわち言い換えるならば、その秘技をすでに知っている者にのみこの秘技を学ぶことは許されるということである。ある人物が彼の発見についての体系を作り出し、何ぴとにも検証しえない仕方で彼独自で行った実験を引き合いに出す全権が自分にはあると信じているとき、率直に言えば、彼の仮説に関してもその検証者が欠けているということは当然のことではないだろうか。[C:74]三つの界の中にあるガラス化土という類比を証明するために、動物的物質〔動物界に属する物質〕でガラスをつくることの必要がベッヒャーにはあった。そのために、ガラスをつくることができなかったまったくの常人である彼は、彼の言う秘技とやらを誰にも伝えないという方法をとるはめになってしまったのだろう。

(1)遺骸を収める骨壺のようなものが想定されているのではなく、文字通り死体がガラス質の壷に変化するという現象を語っている。この現象を説明するために、人体には動物界に属するガラス化土が含まれているという前提が立てられる。このガラス化土が変化することによって乳白色のガラスが精製される(ちなみに植物界に属するガラス化土が変化した場合、「緑色」のガラスが得られる)。白色の花弁を付ける水仙(ギリシャ神話では、ナルキッソスという少年が植物に変化したと言い伝えられている)が取り上げられるのは、動物界に固有の色としての淡色の乳白色が植物界に現れたことを例示するためである。ちなみにルソーはベッヒャー『地下の自然学』第三節、第三章132頁以降の記述をもとに、人体のガラス化に関するこのエピソードを書いている(Becher, op. cit., Lib. I, Sect. III, Cap. III, pp. 132-133)。
 ところで、スタロバンスキーは『透明と障害』の「水晶の透明」において、ルソーが自身に見出そうと切に願った透明性への憧憬が「水晶」に対する彼の眼差しのうちにも見出せると語っている(ジャン・スタロバンスキー『ルソー 透明と障害』山路昭訳、みすず書房、1973年、410頁以下、一部訳を変えた)。このような文脈で『化学教程』のいま問題となっている箇所が引用される。スタロバンスキーによれば「水晶のように透明であることは、あらゆる石のなかで水晶だけが純潔であり、石の堅牢さをもちながら、光を通すからである。視線は水晶を通すが、水晶それ自体が周囲の物体を見透し、貫き通すきわめて純粋な視線である。水晶は石に形象化された視線である。それは純粋な状態の物体であると同様に凝固された魂でもある。したがって、ルソーがその『化学論〔化学教程〕』のなかで最大の注意を向けている化学的実験のひとつがガラス化であることは驚くにたりないであろう。美しいガラスや美しいクリスタルを得ることが、きわめてしばしばひとつの「実験」が行われる目的なのである。そして、理論がはるかに選考しているのであり、基本的な諸概念が、ガストン・バシュラールが「物質的想像」と名付けているような思いつきになおゆだねられているような科学においては、ガラス化の技術は純潔および実体の不死の夢と不可分なのである。ひとつの死体を半透明なガラスに変容することは死と肉体の分解に対する勝利であり、永遠の生への移行なのである」。ガストン・バシュラールの議論はさておき、『化学教程』の問題の箇所は「死と肉体の分解に対する勝利」や「純潔さ」に対する憧憬といった解釈とは無関係の内容ではないだろうか。ルソーが同箇所で行っているのは、むしろベッヒャーのガラス化の現象を説明する際に用いる語り口に対する皮肉めいた批判である。
(2)「私には狂人が推理機能を失ってしまったとは見えない。ただ、狂人は観念をはなはだ正しくなく結び合わせてしまい、これを真理と間違えて、正しくない原理から正しく論ずる人が誤るのと同じように誤る。(‥‥)たとえば、読者も見いだされようが、自分を王様と妄想する乱心者は、それから正しく推論して、王にふさわしい従者や尊厳や服従を要求するし、自分をガラスで作られたと考えてしまった別の乱心者は、ガラスのようなこわれやすい物体を保存するのに必要な用心をしてしまう」(ジョン・ロック『人間知性論』(一)、大槻春彦訳、岩波文庫、2006年、230頁)。なおルソーは『化学教程』を執筆する約10年前の1737年にすでにロックの『人間知性論』をシャンベリーにあるヴァラン夫人宅で読んでいる(当時ルソーは25歳である)。『告白』第六巻で、ルソーは「イギリスやスイスの習慣では、朝食は皆の集まる本式の食事だが、このほうが、各人がそれぞれ自室で食べたり、何も食べないことのほうが多いという、フランス式よりもはるかに好ましい。一、二時間もおしゃべりをしてから、昼食まで本を読む。ポール=ロワイヤルの『論理学』、ロックの『人間知性論』、マルブランシュ、ライプニッツ、デカルト等々の哲学書からまず始めた」と書いている(Confessions, livre VI, OC, t. I, p. 237.『告白』第六巻、上巻、桑原武夫訳、岩波文庫、1965年、338頁、一部訳を変えた)。

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